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 私は自分の真上に伸し掛かる男の影を振り払おうともがいていた。叫び声を上げても、誰も助けてくれない。

どうやっても無理だと観念した私は、遂に抵抗することを諦め、流れに身を任せる。体に生々しい痛みと、どろりとした体液が流し込まれる。涙で霞んだ視界の中で、その男をよく見ようと目を凝らし、すぐに凝らしたことを後悔した。

その男は私に似ていた。無理もない。私の兄なのだから。

「………っ」

 声にならない悲鳴を上げて飛び起きた。肩で息をしながら、じっとりと汗ばんだ髪を掻き上げる。

 ここ数年は見ていなかった夢だ。それを再び見るようになった理由は明らかで、藍沢に恋愛について聞かれてしまったせいに違いない。

藍沢にはああ言ったが、私は恋愛以前に、愛そのものに嫌悪感を覚える。家族愛というものが最も理解に苦しむのだが、もう既に分かろうとすることは放棄した。
 藍沢でさえこれを聞いたら耳を疑うかもしれない。よもや私が初めて男を知ったのが、まだ体の出来上がっていない頃で、しかも相手が私の実の兄だとは思わないだろう。
 兄が私をそういう目で見ているなどとつゆほども思わなかった私は、無邪気に兄とお風呂に入ったり、一緒に眠ったりしていた。
 兄は優しかった。年の離れた兄が妹を可愛がるという構図は珍しくもないかもしれないが、それが常軌を逸していると気付くのにもそう時間はかからなかった。
 その夜は、両親共に仕事で遅くなった日だった。
 私は兄にべったりだったので、甘えて一緒の布団に潜り込んで眠りについていたのだが、夜中になってふと体を這い回る感触を覚えて目を覚ます。
 何か黒い影が私の上に覆い被さっていて、それが兄だと気付いた時、彼は言った。
「何も知らない汐里が悪いんだ」
 そして、熱に浮かされたように私の名前を繰り返す兄に、私はなすすべもなく蹂躙された。
 全幅の信頼を裏切られたために心に傷を負っただけならばまだ良かったのだ。暴力的な愛情を無理やり教え込まされた私の体が、以来繰り返される行為に感覚が麻痺し、狂っていく方が真に恐ろしかった。
 立場上もあったが、私は恋愛がどれほど狂気に満ちて、人を狂わせるものかを痛感した。まだ十にも満たない年の少女が知るには、あまりに酷なことだと我がことながら思う。
 私と兄は、親に隠れて歪な行為を繰り返していたのだが、終わりが来るのも突然だった。予定より早く帰ってきた母に見つかり、私と兄は引き離されて生活することになった。
 あれから兄とは会っていなければ、連絡も取っていない。案外他に女でもつくって、あの異常から抜け出しているのかもしれない。
 しかし私は後遺症として、まともな恋愛ができなくなり、いわゆるセックス依存症のような体になってしまった。セックスを嫌悪しながら、依存してしまう矛盾。他人から向けられる好意にも拒絶反応が出てしまうこの私が、恋愛に幻想を抱くことも叶わない。
 私はそこまで考えて、一人きりの薄暗い部屋で乾いた笑いを浮かべた。
 叶わないと思うこと自体がおかしい。まるで恋愛をしたがっているみたいではないか。私はどうにも藍沢に会ってから、思考回路がおかしくなってきている気がする。
 ふと思い付いてスマホを取り出すと、狙いすましたようなタイミングでメッセージを受信した。相手は案の定、藍沢だった。 

「次の休みは空いてる?」

 私はその問いに答えを送りながら、藍沢との関係を考える。

 私と藍沢は似たもの同士だと思うのだが、具体的に何がと誰かに問われたら答えにくい。一見すると、真逆だと言われても無理はないところも確かにある。

その一つに、私はセックス依存症みたいなものだが、藍沢は違うことだ。もしそうなら、私は藍沢と既に事に及んだだろうが、度々顔を合わせながらもそうした行為をしていない。

むしろあの男は、と考えたところで、私は藍沢との関係をうまく形容できないことに気が付いた。

 

 

 

 

 

レンタルショップのアルバイトを終えると、店長にそろそろ正社員になるつもりはないかという話を持ち掛けられた。私は親からの仕送りと、恐らく兄からも支援されているために金銭面では不自由していないのだが、そろそろまともに働き先を考えた方がいいかもしれないとぼんやりと考えながら聞いていた。

特段何かをやりたいという願望はないので、楽をしたいのであれば店長に言われたようにこのまま社員になる方がいいだろう。取りあえず返事は保留にして、店を出た。

さて今夜の予定は何だったかと思い出しながら、ふらりと街を歩いて行きかけた。その時、路肩に止まった車に目が止まる。見覚えがある気がしたが、そのまま通り過ぎようとした。

クラクションが鳴る。振り返ると、車の中から男が片手を挙げて手を降っていた。相手の顔を見た私は目を見張り、そのまま無視して車から離れようとした。

「待って」

 車から降りた男が、大声を上げて追いかけてくる。

「ついてこないで」

 私は不快感を露に、冷たく突き放す。その男、香椎を睨みつけると、彼は純粋に困ったような、それでいて傷ついた顔をした。その顔にますます苛立ちが募る。 

「私、あなたに勤務先伝えてないでしょう。どうやって知ったの?ストーカーで訴えるわよ」

「だって、君がいつまでもそういう態度だから」 

「はあ?責任転嫁しないで。最初から、私たちはそう割り切っていたでしょう」

「そう思っていたのは君だけだ。僕は違う。いつまで我慢すればいいんだ」 

「私はあなたとそういう関係になるつもりはないの。それを望んでいるなら、他を当たってちょうだい。さようなら。もう連絡してこないで」

 まだ何かをしつこく言ってくる香椎を残して、振り切るために走り出した。走るうちに、怒りはあっという間に冷めていき、代わりに虚しさが込み上げる。 

 何度こういうことを繰り返せばいいのだろう。最初は互いが体だけと割り切っていたにも関わらず、途中から相手が本気になり出して、それが面倒になって関係を切ることばかりだ。 

 このところはそうならないように冷たく接するように心がけていたのだが、それもあまり効果がないことが証明された。

 ふらふらと横断歩道に向かうと、ちょうどいつか藍沢と出会った場所に差し掛かる。石井とかいうあの女は、一体どういうつもりであんなことをやったのだろう。無理心中をするほどの情熱は分からなくても、炭酸の気泡のようにふっと消えてなくなりたい気持ちは分からなくもない。 

 信号機が赤く瞬いた。私は深く考えもせずに、足を踏み出す。それは藍沢を引っ張った時と同じように、無意識の行動みたいなものだった。

「汐里!」

 突然呼び声がしたかと思うと、強い力で後方へ引っ張られた。トラックがクラクションを鳴らしながら、眼前を横切る。

 またあの香椎が追ってきたのかと思い、咄嗟に腕を払いながら振り返るが、予想は外れた。 

「藍沢さん」

 名前を呟くと、藍沢は私よりも戸惑ったような顔つきで自分の手を眺めている。 

「悪いな、咄嗟に助けてしまった。放っておけばよかったか」

 藍沢がひらひらと手を降りながら発する言葉を聞いて、私は彼が人の死を重く捉えていないことを思い出す。

「別に。私も本気で死のうとは思っていなかったから」 

「そうか。俺はこの後暇なんだけど、時宮さんは?」

「私も特に」

「そう。じゃあ、行こうか」

 もともと約束していなかったにも関わらず、自然にそう言われて、私も特に疑問を感じることもなく頷いていた。どういうわけか、藍沢が相手だとこうなる。それを不思議に思いこそすれ、不快に感じることはない。

 しかし、藍沢に連れていかれたのは、バーでも喫茶店でもなく、あろうことかホテルだった。 

 相変わらず行動が読めない男だと思いながらも、遂にこの時が来たのかと部屋に足を踏み入れると、藍沢はキングサイズの派手なベッドで煙草を取り出して吸い始めた。いきなり始めるつもりはないらしい。 

「どうしてホテルに?」

 私が分かりきった質問をすると、藍沢は煙草を咥えたまま何かを考え込む素振りをした。 

「いや、そういえば俺は一度も時宮さんと寝たことはないなと」 

「そう。シャワーは?」

「浴びてきた」

 返事と同時に、藍沢は煙草を灰皿に押し付けると、色気も雰囲気もないまま私に近づくと、顔を近付けてきた。目見がいい男は香りも上等なのかと、私はどうでもいいことを思いながらその顔を見つめ、唇が触れ合う寸前で目を閉じる。

 藍沢のキスは顔に似合わず優しかった。しかし、触れ合わせただけで終わり、その手が私の体をまさぐることはなかった。 

 問いかけるように至近距離で見つめると、藍沢の瞳に沈んだ仄暗い深淵が潤んだ気がした。

「俺の秘密、知りたい?」

「それを知ったら、私も話さなければならなくなるのね」

「あいにく、俺は自分のことで手がいっぱいだ。だけど」

「でも、話したければ話せばいい。でしょう」

 私が藍沢の台詞を奪うと、藍沢は目を丸くした後、思い切り噴き出した。 

「ちょっと、今唾が顔に」

「悪い悪い」

 笑いながら、藍沢は私の顔に舌を這わせた。

「ちょっと、なに……っ」

 くすぐったくて藍沢の顔を押しのけようとするが、藍沢は突然、ぎょっとするほど強く私の両腕を掴んで動けなくした。

「俺は痛くしかできないんだ。泣いてもやめない。覚悟しろよ」

「望むところよ」

 それがあなたの秘密かと聞こうとしたのをやめ、微笑んで藍沢を引き寄せると、藍沢も笑う気配がした。 

 そして、宣言通り、藍沢の抱き方は滅茶苦茶だった。セックスを覚えたての子どもでさえもっと扱い方を心得ていると思えるほどに。その上、私を食らい尽くす獣のように、ぎらぎらと貪欲に貪り、留まるところを知らない。 

 もはや快感よりも痛みが上回り、どちらのための涙か言うまでもないほど流し続けた私は、終わる頃には喉を傷めていた。

「これがあなたの秘密ね。なるほど、あなたに刃物を向けたくなる気持ちが分かった気がするわ」

 私が枯れた声で笑いながら言うと、藍沢は少しも面白くなさそうに口だけで笑った。

「これに加えて、束縛、監禁と続けば大抵の女は精神がやられてしまうからな。俺には愛情と憎しみは同じものだ。愛しているからこそ、殺したい。痛めつけたい。いつの間にか俺の女になったやつはみんな、それに同調してしまうわけだ」

「なるほどね、私とは違うわね。どうして似てるなんて思ったのかしら。抱えてる闇?」 

「そうだな。時宮さんは、あれだろ。恋愛不信?セックス嫌悪症?というか、俺に抱かれて嫌にならない女はいないんだが。顔が青いぞ。吐くならトイレだ」

「そうね。そうさせてもらう」

 どういうわけか、藍沢が相手だと取り繕う気にもならなかった。それは見抜かれてしまったからなのか、それとも藍沢の闇を軽く晒されたからなのか。

 私は胃酸を吐き出した後、冷蔵庫のミネラルウォーターで濯いで一息ついた。鏡を見やると、まだどこか青い顔をしている女が見返してきている。しかしどこかすっきりとして見えた。

「私の話、長くなるけれど聞いてくれる?」

 気が付けば、ベッドで寛ぐ藍沢の隣に戻りながら、私は自らそう切り出していた。

 まだまだ夜に終わりはないというのに、長い夜が明けていく気がしていた。

 

fin