逆さ吊りの世界で

       

 

 昼日中の公園で、ボールで遊んだり、遊具で遊んではしゃぎ回ったりしている子どもたちの横で、主婦たちは世間話に花を咲かせている。転んで怪我をし、泣いている子どもの声さえ、この穏やかな平穏の中では子守歌のように優しく響く。

 その時、ボール遊びをしていた少年が、転がるボールを追いかけてベンチの方へ走って行った。少年はボールに夢中で気が付かなかったが、ベンチには一人の男が座っていた。ボールはその足に当たって止まる。

 少年がボールを拾おうとして、ようやく男の存在に気が付いた。男は紅く燃えるような瞳をしており、その眼光の鋭さに少年はひるみそうになったのだが、その瞳の色の物珍しさに惹かれて口にした。

「お兄さん、綺麗な目だね。赤い宝石みたい」

 すると、男は虚を突かれたように目を見開いて、その途端に目元の険しさが消えてなくなった。そして、ふわりと口元に笑みを浮かばせると、

「ありがとう」

 と、ぎこちなく礼を言った。

 少年は親しみやすさを覚えて、もっと男と話がしたい気持ちになったのだが、母親に呼ばれて仕方なく男に手を降った。

 ありふれた日常の一角に招き入れられた男は、そのまま少年とは反対の方向に歩き出す。そして公園を出たところで、男の携帯が鳴った。

 男は携帯を取り出し、番号を確認すると、眉を潜めた。それは知らない番号だったのか、それとも出たくない相手だったのか、鳴り続ける携帯の電源を落とした。それから、日差しが余程眩しかったのか、サングラスをかけて紅い瞳を隠すと、ゆったりとした動作で住宅街を歩いて行く。

 その足取りは、目的地があるというよりも気の向くままに歩いているという感じだが、ある店の前に辿り着くと、迷いなく中へ入って行った。

「いらっしゃ……なんだよ。アルバーじゃないか。遅いぞ。早く厨房へ入れ」

 定食屋の店主にアルバ―と呼ばれた男は、サングラスを外して頭を下げ、言われるまま厨房へ向かう。

「お前も、顔だけはいいから集客にはなるんだが、あとは時間さえ守ってくれればな。ここに来てどれくらい経った」

「来月で一年です」

「そうか、もうそのくらい経つのか。料理人としてはひよっこだが、そろそろ接客にも本腰を入れないとな」

 店主から指示を受けながら、アルバ―は徐々に手に馴染んできている料理包丁で具材を切り刻んでいく。そうして料理に意識を向けながらも、この一年のことを振り返っていた。

「アルバー?」

「そうです。今日からあなたは、他人には決してルエル・ローランドと名乗ってはいけません。裏の世界で生きていくならばそのままで問題なかったでしょうが、表で生きていくと決めたのならば、別人として生きてください」

 約一年前、エドウィンの屋敷で選んだのは、トロントの紹介で昼日中を生きていくことだった。

そして、囚人生活で長く伸びていた髪を短く切り、定食屋で真っ当な生き方をし始めた。

 トロントの顔が利く店なだけあって、店主は過去や素性について探りを入れてくることもなく、ただ時間にルーズなアルバ―として雇ってくれている。そして、早くも働き始めて一年が経とうとしている。

 日の下で生きることを決めたのは、あの時生まれて初めて抱いた罪の意識のせいだったが、自分がこういう生き方をしていることには未だに慣れない。自分のしたことがこんなことで償えるとは露ほども思っていないが、逆さ吊りされたまま器用に歩いて行っている。

 このまま逆さの生き方が馴染んでいくのか、それともまた引っくり返されてしまうのかどうかは分からない。それでも、いつかはその答えが出るだろう。

 これまでで最高の出来映えの料理を店主に見せ、太鼓判を押してもらいながら、むせ返るような厨房の熱気の中で額の汗を拭う。そして、その時来店した客に、強張った笑顔でいらっしゃいと声をかけた。

 

 

 

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