サルマよりも南に位置する田舎の街であるラシェドにて、ありふれた定食屋の「マルクローゼ」でアルバ―として働くルエルは、休憩の合間に携帯画面を覗き、着信を告げるランプが点滅していることに気が付いた。どうせエドウィンあたりだろうと思っていたのだが、その名前を見て怪訝に思った。
「カーライル?」
エドウィンの屋敷で彼の右腕として働くカーライルとは、屋敷を出る時に世話になって以来、実はろくに連絡を取っていなかった。あの有能な執事のことだから、二人が何も言わずともエドウィンとルエルの関係を見抜いているに違いないのだが、わざわざ連絡するほどの何かがあったのだろうか。
すぐにかけ直そうとしたのだが、休憩時間の終わりが迫っていたので、一言メッセージを入れておくことにした。これで、何か差し迫った用であれば何かしら送ってくるだろう。
そして仕事に取り掛かってしばらくはメッセージの受信を告げる振動はなかったのだが、昼休憩の時間が近付いた時、何気なく携帯を覗き込めば、案の定受信していた。
休憩時間に入ったと同時に、エプロンもそのままに逸る思いで携帯を開くと、カーライルのメッセージはこうあった。
「仕事中に申し訳ありません。エドウィン様の件でお話ししたいことがあるので、仕事が終わり次第屋敷に来てください」
了承の返事を即座に送信しながら、嫌な予感がし始めていた。
エドウィンの件と言われて、すぐに考えたのは、やはり彼が裏社会の重鎮のような立場に置かれていることは大方察しているので、それに関連することではないかということだ。そして、いつ何か身の危険が降り掛かっていてもおかしくないのだと、常日頃から頭の片隅にあった。だが、何にせよこの文面だけでは何も想像がつかないのも確かだ。
心配事を抱えながらも辛うじて思考を切り替え、閉店まで働くと、店主へのあいさつもそこそこに店を飛び出した。
マルクローゼからエドウィンの屋敷までは目と鼻の先とまではいかないが、地元の人間でなければ分からないような入り組んだ道を通ればさほど時間をかけずに辿り着くことができる。元々カーライルはエドウィンとルエルを引き離そうと考えて屋敷から出し、ここを紹介したはずだったが、遠方に自分を追いやらなかったのは監視するためだったのだろうか。
一見して袋小路になっている道を、少し頭を捻って正しい道を選びながら駆けていくと、急激に道が開けて大通りに出た。この道を直進すれば屋敷に着く。
しかし、屋敷まであと一歩というところで、脇道から突然現れた黒い影と衝突した。
「いって」
黒い影と思ったものは、黒いコートを来た男だったらしく、相手が微かに呻き声を上げる。素早く一言詫びを入れて通り過ぎようとしたのだが、ルエルと衝突した男も、その後ろにいる大柄な男も、一瞬ぞくりと身の毛がよだつほどの危険な殺気めいたものを放っていたために、思わず動作を止めて二人を見た。
「なんだよ」
華奢な方の男が、男にしては高音の澄んだ声で不機嫌そうに言った。サングラスを掛けて目は隠れているのだが、その向こうで隠しきれない美貌が窺えた。
そして、後方にいるもう一人の男は、美貌ではないものの、ただ者ではないと思わせるには十分な体格をしているにも関わらず、それにしては気配が希薄だった。気配を消したつもりなのだろうが、あいにくルエルも一度は殺しの道に進んだために、消しきれていない殺気の匂いをしっかりと嗅ぎ取っていた。
咄嗟に身構えようとしかけたが、今はそれどころではないと思い直すと、彼等をその場に残して屋敷へと向かう。その際、後方から舌打ちをする音がした気がしたが、綺麗に無視を決め込むと、彼等も難癖をつけてくることもなく、反対方向へ立ち去る気配がした。
それを見送ることもなく、気を取り直して屋敷の門前まで駆けていくと、呼び鈴を鳴らした。その時にはもう二人の男たちのことは頭の片隅に追いやられていた。
「お待ちしていました。お迎えに参らなくても辿り着けますか?」
カーライルがインターホン越しにそう尋ねてくるのも無理はない。エドウィンの屋敷は職業柄も関係しているのか分からないが、容易に中まで辿り着けないような構造をしている。普通の人間であれば、あれは数回通っただけでは道順を覚えられないだろうが、ルエルは記憶力に自信があるので、すぐに答えた。
「ああ、問題ない。全て記憶している」
「分かりました。ルエル様はそうおっしゃられると思っていました。セキュリティを解除しておきますので、玄関口でお待ちしています」
カーライルがそう言うと同時に、門扉が開かれていき、セキュリティが次々に解除されていく機械音が続いた。ルエルが素早く滑り込ませるように中に入ると、監視カメラか何かで見ているのか、すぐに後方で門扉が閉ざされた。
まるで童話の世界に迷い込んだように、迷路のような道筋が続くのがどこか懐かしい。最後にこの屋敷にいたのは、ここを追い出されるかたちで出て以来となるため、やがて一年が過ぎようとしている。
こちらから会いに行こうとしなくとも、エドウィンがまるで通い妻のようにルエルの元に頻繁に来ているため、屋敷に赴く必要性はなかった。そうやって自然と遠ざかっていたのだが、結局エドウィンと会い続けている現状を考えれば、もっと気軽に訪れてもよかったのかもしれないと思わなくもない。
昔の記憶を掘り起こしながら着々と迷路のゴールを目指していると、自然とあの悪夢や自分を避けているもう一人のエドウィンのことが頭を過った。それを考えると、焦燥にも似た感情が沸き起こって来て、急いた気持ちのままに足を速めていた。
「早かったですね。驚きました。エドウィン様は自室にいらっしゃいますので、こちらへ」
驚きましたと言いながら全く驚いたようにしていないカーライルに頷き、後に続いて玄関から中へ入る。相変わらず豪勢な屋敷だが、一応元上流階級のルエルにとってはさほど気後れらしい気後れはない。
「それで、エドウィンが一体どうし……」
長い廊下をカーライルの後に続いていると、屋敷の様子がいつもと違うことに気が付いた。広々とした邸宅にも関わらず、いつもは最低限の使用人がちらほらいるくらいなのだが、今はいかにもといった風貌の大勢の黒服たちがそこかしこに行き来している。
彼等が何者かは大方予想はつくが、問うようにカーライルに目を向けると、すぐに察して答えた。
「ああ、彼等はエドウィン様の部下です。まだ緊急事態というほどではありませんが、エドウィン様が指示を出される前に眠りに就いてしまわれたので」
「眠りに……?」
それは異常事態と呼べるほどのことだろうか。些か眠るには早過ぎる時間帯だが、昼夜忙しく働いていることを考えれば、むしろ普通のことのように思うのだが。
疑問が態度に出ていたのか、カーライルは一つ頷くと、エドウィンの寝室をノックした。返答はなかったが、そのままドアを開くと、ルエルを伴って中に入って言った。
「ここで現状についてご説明しましょう」
王族のような広々とした天蓋付きベッドで眠りに就いているエドウィンを目にして、わざわざこんなところで話をして眠りを妨げないかと気になった。
「こんなところでいいのか?」
「構いません。むしろ、ルエル様の気配と声で起きてもらえればと思っていますので」
まるで起きてもらわないと困るとでも言うような台詞に疑問を覚える。そこまで差し迫った状況なのだろうか。
しかし、疑問を口にしかけたところで、カーライルの厳しい顔つきにただならぬものを感じて口を閉じた。
「エドウィン様は三日間眠り続けられています。三日前、私と仕事の話をしている時に、突然意識を失うように眠られてから、それきりです。怪我などの外的要因は見つかりませんでした。医師が言うには、どうやらエドウィン様は近頃こうおっしゃっておられたようです。『もうすぐ、もう一人の自分がいなくなってしまうような気がしてならない』と」
言葉を失くしたルエルを見て、カーライルは何とも言えない複雑な顔つきをした。
「本来であれば、エドウィン様の状態は人格の統合、つまり快方に向かっているということで、むしろ喜ばしいことなのでしょう。ですが、私たちの勝手な都合かもしれませんが、今エドウィン様の中からあの方が消えてしまうというのは、大変最悪な事態です」
「それは、一体……」
尋ねながらも、その最悪な事態が想像に難くないことを感じていた。エドウィンの片方がいなくなるということは、つまり。
「ルエル様もご存知の通り、エドウィン様は裏と表の顔でそれぞれの世界で名を馳せています。どちらの世界でも旦那様はいなくてはならない存在であることは間違いありませんが、仮にどちらか一方がいなくなってしまうことがあれば、一層困ることになる方は裏の顔なのです。大袈裟ではなく、この国の秩序という均衡が崩れてしまうでしょう」
「秩序……」
「エドウィン様がいらっしゃることで、あらゆる悪事に手を染めていらっしゃった方も、それ以上の悪に進ませないように更生させられたり、あるいは更生の道が閉ざされた者は粛清されたりという面もありました。要するに、エドウィン様はこの社会が悪の手に堕ちないための抑止力になっていました。勧善懲悪、とも言うのでしょう。そんな旦那様がいなくなってしまえば、この国がどうなるかはもうお分かりでしょうか」
「……ああ。……薄々感じていたが、エドウィンはそんなに重要な存在だったんだな」
視線を下ろすと、まるでそういう人形のように金髪の青年は横たわり、深い眠りに陥っている。大声とまではいかないが、枕元でこれだけ会話をしているにも関わらず、目覚める兆しはまるでない。
彼の傍に近寄り、よくルエルが眠りに就く時にしてくれるように、指通りがいい金髪に触れ、ゆっくりと撫でる。すると、心なしか表情が柔らかく溶けたように見えた。
「エドウィン……」
カーライルは言わなかったが、もしこのままどちらの彼も目覚めないことになれば、もっと最悪な事態が待ち受けているだろう。
しかし、そんな世界や国がどうこう以前に、彼という存在は、裏表どちらも自分の在り方そのものに大きく影響を与えていて、単純に大切というだけではないのだ。気が付けば、言葉が口から零れ落ちていた。
「最後まで責任、取れよ。お前が俺をこうしたんだろ……」
無論、彼から何かしらの反応が返ってくることはなかった。
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