突き刺さる愛情

      

 

 慣れない絵筆を使ったせいか、予想以上に時間が掛かってしまったが、なんとか絵を完成させた。一番に見せようと思っていたわけではないが、絵に没頭するルエルの傍らで時々様子を見ていた彼が、やはり最初に目にすることになった。

「………」

 エドウィンは言葉もなくその完成された絵に見入っている。いつかのように涙を溢すことこそなかったが、何よりその真剣な顔つきが雄弁に語っていた。

 天使が楽しんで罪を犯している姿に、こちらのエドウィンは何を思ったのだろう。恐らく裏のエドウィンは好きそうな絵だが、こちらのエドウィンが素直に称賛するのは、今更ながらに意外に思えた。

 やはりいくら人格が違うといっても、根本的には同じ一人の人間なのだろう。

「ルエル、この絵は早速飾りに行っていいかな」

 紙の具合を見て、十分に乾いたと判断した様子のエドウィンが、ルエルを振り返った。それに対して頷くと、エドウィンは子どものように顔を輝かせて絵を移動させる準備を始めた。

「それじゃ、そっちを持って」

 指示に従って絵が描かれたキャンバスを持つと、エドウィンはイーゼルを折り畳んだ後、持ち上げた。その様子を見ながら、この間から疑問に思っていたことが口をついて出ようとしたが、どうにもこちらのエドウィンに話しかけるのは未だに慣れなくて止めた。

 疑問は大したことないことだ。エドウィンはこれだけ広い豪邸に住み、執事を何人も雇っていながら、あまり執事を頼る素振りはない。料理もこの間のことで知ったが、それなりの腕前だ。ルエルもそうだが、普通の金持ちは何でも使用人任せが通常なので、そうでない彼は特殊な気がしたのだ。

「ルエル」

 声を掛けられて顔を上げると、あの絵が飾られた部屋の前に立ち、エドウィンが困ったような顔をして手招きした。どうせ鍵を忘れたとかそういうことだろうと思って近付くと、ルエルの手から絵を取り上げて壁に立てかけると、ぐいと体を引き寄せられた。

 そして耳元で、

「ねえ、また声を聞かせてよ。さっきも何か言いかけて止めてたんじゃない?僕、ほとんど聞いたことないけど、君の声が好きなんだ」

「………っ」

 体を押しやろうとしたが、存外に強く腰を抱かれていて剥がせない。

 エドウィンは、ルエルが悪戯心で反撃の意味も込めて唇を奪って以来、それまでの純情ぶりは一転、あからさまな好意を向けるようになった。そうと知っていたにも関わらず、思わず失念していたことを悔いるが、後の祭りだ。

 誰の目もないのをいいことに、エドウィンは部屋にも入らずに廊下で強引に口付けてきた。ただ押し付けるだけでは済まない、舌先を巧みに使った濃厚なキスだ。

「んっ………ふっ………」

 息をつく暇もない、しつこいほどに情熱的なそれに、知らぬ間に喉の奥で声を漏らしてしまう。それがエドウィンを調子づかせてしまったらしく、キスの合間に体の線をなぞるようにしていた手のひらが、シャツの中に潜り込んできた。

「………っぁ………」

 指先が胸の突起に辿り着いた途端に、びくりと体が跳ねる。同時に膝でも股間を刺激されて、本能的に気持ちよさに流されてしまいたくなった。

 しかし。

「ルエル、好きだよ」

 熱っぽく愛の告白を囁かれ、それが暴力的なほど真っ直ぐに胸に刺さり、一気に熱が冷めた。

 押したり剥がそうとしたりしても駄目ならばと、エドウィンの好きなルエルの声とやらで言い放った。

「俺がやっていることを知ってもそんなことが言えるのか」

「やっていることって?」

 エドウィンの瞳が戸惑うように揺れる。

 これを言えば、エドウィンが壊れてしまうという予感があった。

 それでも、押し付けられる純粋過ぎる愛に対する苦痛と共に、知る必要のない感情が生まれることを拒絶したい一心で、口走っていた。

「家族を虐殺したことは過去のことだが、俺は今でも、楽しんで人を殺しているんだ。もう一人のお前の下でな」

「そ、そんな……嘘だ。だって、約束したじゃないか。この屋敷から出ないようにって。一体、いつ……」

 分かりやすく動揺しているくせに、核心に触れず、まず確認してくるのは約束のことだった。そのことにおかしみが込み上げてくる。

「お前が夜中に度々出掛けているのを、俺が気付いていないとでも思ったか。……ああ、もう一人のお前と言った方が正しいか。記憶にないんだもんな」

 その後の出来事をかいつまんで説明し、仕事と称して殺しをしているというくだりまで来たところで、エドウィンの顔色が紙のように白くなった。そして、頭を抱えたかと思えば、狂ったように叫び声を上げた。獣のように咆哮し、怒りを露にしたかと思えば、止めどなく涙を溢して慟哭する。

 その尋常ではない有様を見ていい気味だとは流石に思えなくなったが、駆け寄って宥める資格はルエルにはない。何も出来ずに立ち尽くしていると、騒ぎを聞きつけたのか、廊下の向こうからカーライルが駆け付けてきた。

「エドウィン様、大丈夫です。大丈夫ですから、思い出す必要はありません。そのまま忘れて眠ってください。ほら、この薬を飲んで楽にして。寝室に行きましょう」

 カーライルが必死で宥めると、エドウィンはようやく徐々に落ち着きを取り戻してきた。そして促されるままに、何か錠剤を口にして大人しく連れられて行った。

 立ち去り際、カーライルが探るような目付きでルエルの方を振り返ったが、今は主人のことが最優先事項らしく、何も言わずに行ってしまった。

 一人残されたルエルは、自分の描いた絵を見つめた後、ふと思い当たることがあって部屋の中に入った。そして、最初に見た時と同じように、他の絵には思うところはないのだが、あの絵だけは一際引き付けられるものを感じた。

 自分の絵を隣に並べた後、改めてその絵をじっくりと眺めると、姿形はまるで描いた本人には似ていないというのに、あの男そのものだと思えてならない。あの様子を見た後だからそう思うのだろうが、不意にカーライルの言葉が蘇った。

「悪魔というのは、最も悲しい人間の姿なのかもしれませんね」

 

 それから数時間後、眩いほどの夕陽が部屋の中に差し込んできた頃、カーライルがルエルの部屋へ訪れた。話があると言うので招き入れたところ、カーライルは険しい表情で切り出した。

「今、一応エドウィン様は落ち着いて眠っているように見えますが、それは表面だけに過ぎません。もうご存知かと思いますが、エドウィン様にはもう一つの人格があり、今までは到底信じられないことですが、ご自身である程度コントロール出来ていました。ところが、先ほどまでずっと付き添っていたところ、非常に精神的に不安定になっておられるせいか、人格が目まぐるしく変わっておられるようでした」

 次に告げられる言葉を、半ば予期して背筋を伸ばした。

「はっきり申し上げますと、あなたの存在はあの方にとって悪影響でしかありません。できれば、エドウィン様がお目覚めになる前に、この屋敷から出て行っていただきたい。後の身寄り先などは私が手配しますので、ご安心ください。再逮捕されないよう取り計らいましょう。何か反論など、言いたいことはありますか」

「反論はないが、最後に一つだけ聞いておきたい」

「何でしょう」

「エドウィンがああなった原因というのは」

 その問いかけを口にすると、カーライルは少し躊躇う素振りをした後、

「本来ならばエドウィン様の口からお聞きになった方がいいことですが、最後ですからお話しておきましょう。ただし、私も当時のことは人伝に聞きかじったことですが。二十年ほど前、世間を騒がせた無差別殺人事件をご存知ですか?無論、あなたのことではありません」

「ぼんやりとしか覚えていないな。そんなこともあった気がするくらいで」

「当事者でないとそんなものかもしれないですね……」

「まさか」

 嫌な予感が膨らみ、カーライルを見つめると、彼は重く溜息をついて頷いた。

「その最初の事件の被害者というのが、エドウィン様のご家族でした。まだ幼かったエドウィン様は、目の前でご家族が殺されていくところを目にしてしまったようです。しかし、当然ながらショックが大きすぎたのでしょう。もう一つの人格を生み出すことによって、ご自分を守り、当時の記憶は失くしてしまわれたようです。封印した、と言った方が正しいのかもしれませんが」

 耳の奥で心音が大きく鳴っている。不整脈のように歪な音を刻む鼓動に重なるようにして、ふっと幼い少年の前で殺人鬼が暴れている光景が浮かび上がった。それは今現在、目の前で繰り広げられているようにリアルで、その光景そのものが本物である気がしてくる。

 その中で、少年に襲い掛かろうとしている殺人鬼を止めようと手を伸ばすと、振り返った顔立ちはルエルそのものだった。

 視界がぶれて、吐き気を堪えようと身を屈ませると、待ちわびていたように床の上に血だらけの天使の顔が転がってくる。それもすぐさまルエルの顔に変わる。

 エドウィンの叫び声が耳鳴りのように、あるいは壊れた機械のように延々と大きくなり、小さくなりを繰り返す。それはルエルを責め立てていて、やめろと叫ぶこともできない。いや、やめさせる資格はない。

 今まで感じたことのない、知りもしなかった感情が、恐怖に似た悪寒を伴って突き上げてくる。ぎりぎりと内蔵を締め付けるようなその感覚を、何と呼べばいいのか。本当はもう分かっている。

 これは罪悪感だ。

 認めた途端に、逆さ吊りにされているように正誤が引っくり返った。気持ち悪さを堪えられないで蹲っていると、

男の声が降ってくる。今度はちゃんと外界から届く声だった。

「ルエル様、顔色が悪いですね」

 夢から覚めるように現実感が戻ってくる。今度こそ本物の現実であることを確認するために自分の汗ばんだ手を握りしめた。

「何でもない。気にするな」

「分かりました。もう質問はありませんか?」

「ああ」

「でしたら、住処と仕事について説明させていただきますが、その前にご紹介したい人がいます。トロント、ランパルト、入れ」

 廊下で待機させていたのだろう。カーライルの声に合わせて、二人の対照的な男が部屋に入ってきた。

「紹介します。こちらの茶髪でいかにもお人よしそうなのがトロント」

「どうも、お初にお目にかかります」

 にこやかに会釈したトロントという男は、紹介通り嘘もつけなそうないかにも善人面だ。

「そしてこっちのいかにも悪人面の男ですが、その実はお調子者なランパルト」

「えっ、なんすか。その説明。ひどっ」

「いいから、挨拶を」

「へいへい。ども。よろしく」

 対するランパルトという男は、裏社会にいてもおかしくなさそうな強面だが、第一印象からイメージがことごとく壊された。

「この二人は、実はエドウィン様の下で働いている部下です。こう見えて口が堅く、エドウィン様の両方の顔を知っている唯一の者たちですので、今回あなたの仕事を紹介してくれるには適任かと考えて呼びました。見た目で分かるかと思いますが、トロントには表の仕事を、ランパルトには裏の仕事を紹介させるつもりです。いかがなさいますか?」

 カーライルに訊かれて、考える間もなくルエルはそちらを選んで答えていた。それから、速やかに住居を移す運びとなり、ろくに荷物もなかったために、その数時間後には屋敷を後にしたのだった。

 

 

 

逆さ吊りの世界で