7 櫻人

 鳥の声が聴こえる。続いて、川のせせらぎだろうか。穏やかな気持ちになりながら、ゆっくりと目を開いていくと、緑が生い茂る山の中にいた。

 現実と比べても遜色のない草木の臭いと肌触りに、一瞬あの集団にここまで連れてこられたのかと考えたが、こうして野放しにするはずがないと思い直す。

 恐らくこれもまた夢なのだ。あるいは、記憶とも言える。ここまで忠実に再現できるならば、なぜこれまで思い出せなかったのだろうか。

 上空を見上げると、やはりいつもより空が遠くに感じた。見回しても、人の気配もない。

 確かもう少し奥まった場所に、父と母と3人で暮らしていた。幼い頃はこうして人里離れた場所ばかりにいたことを思い出していく。はっきりとした理由は分からなかったが、各地を転々としてきた。父と母以外の人と接する機会はほとんどなかった。学校にも通わせてもらった記憶はない。

 まるで何かから逃げるようにしていた。その何かの正体を今ならば分かる気がする。

 過去に思いを馳せながら山の中を歩いていくと、小屋が見えてきた。あそこに父と母がいる。そして、あの会話を聞くのだ。

 あの時は特に理由があって盗み聞きしたわけではなかった。ただ、本当に偶然だった。それを再現するようにして、二人に気付かれないようにそっと戸口に近付いていくと、男女の会話が漏れ聞こえてくる。

「奴らがサクラビトを追っている理由は分かっているつもりだが、もうそろそろ逃げ続けるのも限界じゃないか。君ももう長くはないんだろう。せめて最期ぐらいは不安の種を無くしてしまえたらいいんだが」

「それが出来れば苦労しないわ。彼らに話が通じるとは思えない。何より、今まで私たちサクラビトが受けてきた仕打ちを考えれば、決して許すことはできない」

「だからって、あの子のことを考えると、友達も一人もいないのは不憫だ。そもそもどうして、奴らは今になって君を狙ってくるんだろう。君は学生時代までは普通に生活できていたと聞いたんだが」

「きっと私以外のサクラビトがほとんどいなくなったのよ。私がいなくなったら、あの子のことをお願いね。たぶんあの子もあなたより先にいなくなってしまうだろうけれど」

「言わないでくれ。君を長生きさせる方法さえ見付けられていないというのに」

 奴らというのが、あの集団を指していることは間違いなかった。しかし、サクラビトというのは何なのだろう。そのまま当てはめると、「櫻」と「人」を合わせて「櫻人」か。

 身内の欲目を除いても、母が常人離れして美しかったのも、そのサクラビトとやらだからと当時はすんなり納得したように思う。今も疑問は残るが、母がただの人ではないという点に関して言えば不思議と疑いの余地はない。

 それならば自分もそのサクラビトというものなのか。そして、長く生きられないというのか。生まれ落ちた瞬間から寿命を決められているのは、何て理不尽なのだろう。

 もやもやとしながら辺りを見回すと、再び突然に景色が変わっていった。季節が早送りされたようにあっという間に移り変わり、あの瞬間が訪れる。

 

 濃厚な花の香りが鼻腔を刺激し、それに埋もれるようにして突っ伏していると、肩を揺さぶられた。

 ゆっくりと顔を上げると、父が辛そうに顔を歪めて見下ろしていた。

「宵娯、母さんはもう……」

 その言葉を最後まで聞くことができずに、首を降り、突っ伏していたところにある冷たい人形を未練がましく見つめた。

 生きていた頃も誰よりも美しかった母は、死してなお、より一層美しさを増し、それは一瞬の神々しささえ纏っていた。母の名前と同じ桜の花弁に抱かれて、安らかに眠り、今にも動き出しそうな気配を漂わせている。そのあまりに生々しく、若々しい有り様に自分の未来が透けて見えた。

「父さん、僕もあまり生きられないの?」

 その台詞に、父が息を呑む気配がした。長い沈黙が流れて、父は何も返事をしないだろうと思われた時に、独り言のような言葉が降ってきた。

「知らないままでいさせたかったんだがな」

 弱々しく微笑む父を見上げて、胸が痛んだが、問いを止めることはできない。

 それを止めれば、母の死からも目を逸らすことになると感じた。

「父さんと母さんが話しているのを聞いたんだ。サクラビトって何?」

「それはーー」

 父が答えようとした時、その背後からあの白衣の集団が現れた。さっと強張る父の顔を見て、咄嗟に父の背中に隠れる。

「彼女はもうこの世にいない。残念だったな」

「その少年を差し出せ。息子なのだろう。サクラビトと人間のハーフとは、貴重なサンプルが取れそうだ」

 白衣の男が手を伸ばしてくるのを、父が叩き落とした。

「ふざけるな!彼女から話は聞いている。貴様らの行いは全て法で裁いてもらう。この子に手出しはさせないぞ」

 父が必死で自分を守ろうとするが、彼らは鼻で笑った。

「法がなんだと言うんだ。この研究が成功すれば、我々の正当性は間違いなく認められ、国は味方してくれるに違いないのだ。どうだ、お前もこちらに来ないか。彼女を蘇らせる手段が見付けられるかもしれない」

 その言葉に目が眩んだのか、父はそれまでの抵抗を忘れ、彼らに従ってしまう。

 それまでの鮮明な記憶に比べ、その後の出来事は断片的になった。あまりに衝撃が酷すぎたのか、ただただ血と薬品の臭いと絶叫を伴う痛みばかりが襲いかかる。

 

 意識が浮上していくにつれ、全身に冷たい器具の感触を覚えた。獣を繋いでいるように、両手両足を拘束されているだけではなく、心電図を取る時のような吸盤を胸元に張られ、機械音が無機質に宵娯の鼓動を伝えていた。

「ここは……」

 どこだ、と問いかけるまでもなく、溢れ出した記憶が訴えかけてくる。ここは来たことがある。そして、逃げなければ大変な目に遭うと警告している。

 失っていた記憶が蘇ったのは、それを思い出さざるを得ないような状況に追い込まれたからかもしれないが、考えるのは後だ。

 ひとまず枷をどうにかしようともがいたが、不快な金属音を立てるばかりで、頑丈に絡み付いて外れない。鍵穴を見つけたが、ピッキングの技術もなければ、また片手の自由も得られなければ意味がない。

 悪足掻きと知りながら、手首と足首が痛み出しても構わずに暴れると、自動ドアが開いて室内に人が入って来た。

 絶望が押し寄せてくる。それでもその相手を見ようと首を捻ると、あっと声を上げそうになった。その様子を見て、男は見慣れた愛しい人と同じ笑い方で告げた。

「少し昔話をしようか」

 

 宵娯が連れ去られた後、残された侑惺はというと、何故だか職員室に呼び出されていた。すぐに宵娯を助けに行かなければと焦りを募らせるが、そんな侑惺を強引に応接室に入れて椅子に座らせると、君と話をしたいという人がいると言われて、かれこれ十数分待たされている。

 いい加減痺れを切らし、叱責を食らうのを覚悟で立ち上がりかけた時だった。

「すまない。待たせたな」

 先ほど宵娯を連れ去った人々と同じ白衣を羽織った男だった。その男と入れ替わるように、教員が出ていく。

 応接室に二人になると、瞬時に身構えるが、男は長身の体を折り曲げ、低く頭を下げて言う。

「私たちの事情に巻き込んですまない。だが、君のために言わせてもらう。宵娯とはもう関わらない方がいい」

「なぜあなたにそんなことを言われないといけないんですか」

「私が宵娯の本当の父親だからだ。宵娯は今、義理の両親と暮らしているが、あの姿を見間違うはずがない。正真正銘、私の息子だ」

 突然告げられた事実に絶句し、ふと宵娯が探していた人間の特徴と一致することに気が付いた。しかし、そのことと侑惺が関係を持ってはならないことがどう繋がるかが分からない。その疑問が顔に出ていたのか、宵娯の父親と名乗る男は訊いてきた。

「話をする前に、一つ尋ねてもいいかな」

「何ですか」

「君は、宵娯とはどういう関係なんだ」

 問いを受けた途端、宵娯に口付けられた時のことを思い出し、唇が熱を帯びた気がした。狼狽えてしまったのが伝わったのか、男は眉を潜める。

「友達、です」

 答える声が震えて、さらに言葉が曖昧に濁った。どうして動揺している自分がいるのか、もう分かっている気がした。それを見抜いたのかどうか分からないが、男は溜め息を溢した。

「でも、少なくとも宵娯はそうは思っていない。そうだね?」

 今度は否定のしようがなかったので黙っていると、男は淡く微笑んだ。その笑みに宵娯の面影を見て、確かにこの男は彼の父親なのだと確信した。

「櫻人が恋に溺れるなんてね。私の時とは逆だな。やはり君は特別なんだな」

「さくらびと?」

 どこか神聖な響きのある言葉を発すると、体の奥が疼いた。その言葉を知っている気がしたのに、それが何だったのか分からない。

「どこから話そうか。まずは……」

「あの。その前に、宵娯は大丈夫なんですか?」

「宵娯がどうしたって?」

「知らないんですか?彼は連れ去られたんです」

「まさか……」

 途端に表情を険しくした様子を見ると、何も知らないのだろうか。もっとも、それが演技でなければだが。どうにもこの男を信用しきれないのは、空気や身なりがあの異様な一団と似通っているせいだろう。

「ちょっと失礼」

 男は一言詫びを入れ、どこかに電話をかける素振りをした。どうやら相手が出ないらしく、苛立たしげに顔をしかめる。

「あいつら、勝手な真似を……。息子には手を出さない約束だったのに」

「彼等のことを知っているんですか」

「知っているも何も、私は……。誤解がないよう説明したいが、残念ながら時間がないようだ。後日説明するので、君はそのまま授業に……」

「今さら後には引けません。俺を連れていってください」

 頭を下げて頼むと、男は溜め息をつきながら渋々頷いた。

「ついてきなさい。説明は車の中でしよう。学校側には私から言っておく」

 素早く立ち上がり、急かして来るのを見て、自分から頼み込んでおいてなんだが、一瞬信用していいか迷いが生じる。このまま自分も怪しい組織に連れ去られるのではないかと。

「何をしている。宵娯を助けたいのだろう」

 その台詞でようやく決心がつき、男の後に続いて応接室を出た。

 

 宵娯の父と名乗る男から移動中に昔語りを聞く頃、時を同じくして捕らえられた宵娯も、侑惺に似た男からその話を聞いていた。

 それは太古の昔、神が地上に御座す頃のこと。

 神は人を生み出す前に、自らの生命の源を切り離し、大地を作り出した。大地は神に見守られながら育ち、やがて森となり山となった。それらを健やかに育てるために、太陽と水も生み出すと、たちまち美しい楽園が出来上がる。

 神は自分が直接手を加えなくとも自力で育つよう、それぞれの神の子たちに命じて、木には木の、水には水の、太陽には太陽の守り神とさせた。

 その中でも神が最も愛した子は、桜の精とならせたものだった。神には性別という概念はないのだが、もし実体があれば、あるいはと思わずにいられず、桜の精にだけ特別に、何でも願いを一つ叶えてやろうと持ちかけた。

 すると桜の精は、もしも叶うならば、私は実体を持ってあなたの傍にいたいと告げる。神は願ってもないことだったので、すぐに叶えてやることにした。互いに人の姿となった二人だったが、親子の情を超えて愛し合ってしまうようになる。

 無限の時を幸せに過ごした二人だったが、桜の精はそのあまりの美しさゆえにあらゆる神々関心を引いた。次第に神々が人の姿となりゆく中で、ある時、桜の精に言い寄る相手の存在に気が付いた神は、激しい悋気を起こし、弁解も聞き入れないまま罰を与える。

 それは、桜の精の生命力を奪い、短い一生とすることだった。また、その身に宿る神の力と美しさが後の世に争いを生むことを見越しながらも、冷静さを欠いた神はそれを放置し、その子孫も代々短命となるようにした。

 一種の呪いとも言える罰は、現在も引き継がれ、それを解く方法は見つかっていない。桜の精は後の世で櫻人と呼ばれるようになり、その常ならぬ美しさはもとより、彼等の中にある神の力を得られると、人はあらゆる病もたちどころに治り、長生きできると言われている。

 実際に、過去に櫻人から何らかの形で力を得た人がいたらしく、そのために研究員たちは血眼になって櫻人を見つけ出しては、人体実験を繰り返してきたという。

 そして宵娯の母であるさくらもその身を追われ、命を落とす間際まで逃亡生活を送り、宵娯がまだ幼い時にこの世を去った。さくらを弔っている間に居所を嗅ぎ付けた研究員が現れ、二人揃って囚われると、宵娯の父、影綱は研究の協力すれば宵娯の命を保証すると半ば脅され、研究が成功すればさくらを生き返らせることもできるかもしれないぞと言われ続けるうちに、そのまま自ら研究に手を染めるようになった。

 しかし、自分の息子があらゆる実験で傷付き、正気を失いかけているのを見かねた影綱は、こっそり開発していた麻酔薬を他の研究員に吸わせて眠らせている間に、宵娯にここでの記憶を全て忘れさせる薬を渡して逃がした。

 無事に彼を逃がした後、目覚めた研究員たちからどんなに責め立てられようと素知らぬふりで通し、自分はそのまま宵娯の身を案じながらも研究員たちが彼を見つけ出さないように監視し、研究を続けた。

 宵娯が無事に入院したと知った後は、友人の桜庭夫婦に頼み込んで引き取ってもらう手続きを済ませた。

 やむを得なかったとはいえ、犯罪に手を染めた自分の息子とするのは気が引けたからだという。

 その一方で、研究の過程で新たな事実を発見した。

 それは唯一櫻人の魔力に引き込まれず、櫻人に対して普通の人間と同じように嫌悪感を抱いたり、無条件に引き寄せられることのない人々の存在だ。

 彼等の存在が櫻人に与える影響は明らかではないが、ただ人と同じように普通の恋を望む櫻人も少なくなく、呪いうんぬんを抜きにしても特別な存在に違いない。

「その人間というのが、君さ」

「俺が……」

「さあ、着いたよ。くれぐれも、君がその特別な人間だと気付かれないように。万が一でも悟られれば、君まで実験の対象になってしまうだろうからね」

「はい」

 気を引き締めて顔を上げると、車窓越しに山中の木々に覆い隠されながら佇む研究所が白く浮かび上がっていた。

 

 一方その研究所で話を聞かされていた宵娯は、男にこう尋ねた。

「お前の名は何と言う」

 一つの確信めいた悪い予感を抱きながら、男の顔を見つめる。男はかつて想いを寄せた女の面影でも見つけたのか、一瞬ぼうっと気の抜けたように見返してきて、答えた。

「清水だ。清水時真」

 思わず呻き声を上げそうになった。これで侑惺の父親だということはほとんど間違いなく、もっと悪いことに彼の家庭をめちゃくちゃにした原因が自分の母親にあることが判明した。侑惺に合わせる顔がない。

 どうせ短い命ならば、ここで果ててしまった方がいいのかもしれない。逃げ延びたところで、侑惺は自分のものになるどころか一生恨んでくるだろう。

 どろりと絶望が兆し、舌を噛み切ろうとした時だった。

ーー宵娯、だめよ。諦めないで。

 とてつもない色香を含んだ女の声が、囁かれるように身の内で響いた。それは酷く懐かしく、慈愛に満ちたものだ。

 母さん、と胸の内で呼びかけると、彼女が儚く美しく笑う光景が浮かんだ。

ーー私が逃げる手助けをしてあげる。だから、あなたは二人と一緒に。

 二人とは誰のことだ、と問いかけようとした時、照明が突然落ちた。そして、警報器が作動し、人が駆けつけてくる音がする。

 また新手の研究員か、と身構えた時、両手両足の戒めがふっと解けた。暗闇に目が慣れると、侑惺の父、時真の脇をすり抜け、手探りで出入り口を探し出し、機能していない自動ドアとは別の非常口から外に出た。

 音を立てないように出たつもりだが、時真も気が付いたらしく、後を追ってくる。

「待て。君のお母さんに会いたくないのか」

 心が揺らぎかけて、母はすでにこの世にいないことを思い出して踏み止まる。

「母はもう死んだんだ」

 階段を駆け降りながら、振り返りもせずに言うと、母が身の内で悲しむ気配がした。

「彼女の身体は、未だ生前のままで保管してある。君が協力すれば、彼女は生き返ることができるかもしれない」

 ーー耳を貸しては駄目よ。死者を蘇らせるなんて、神も絶対に許さない禁忌。あなたの命を無駄にしないで。

 母の訴えを受け入れ、時真の声を振り切って階段を降りてしまうと、反対側から駆けて来た人物と正面衝突しかけた。

「侑惺」

「宵娯、よかった。無事だったんだ」

 再会の喜びか、侑惺は迷うことなく宵娯の胸に飛び込んだ。驚き、戸惑いながら抱擁を受けていると、侑惺の身体越しに長身の男と目が合った。

「宵娯……」

「父さん」

 記憶が戻った今となっては、男をそう呼ぶことに躊躇いはない。互いにぎこちなく笑っていたが、父は不意に表情を引き締めた。

「時真」

 その名前を耳にした侑惺が、宵娯から身を離し、目を見開いてその男を見る。

「お父さん、なんで……」

 その反応を見ると、侑惺は何も知らなかったようだ。しかし時真の身なりを見てそれと悟ったのか、父にそれ以上の問いはしなかった。そんな親子の様子を横目に見ながら、影綱は時真に言い放った。

「私はこれから警察に行こうと思う。研究のことを公にし、これまでこの手で失った彼等の命に対する償いのためにな。他の奴らは全員眠らせて拘束して拘束してある。お前はどうする。一生逃げ続けるのか。それともその拳銃で私を殺すのか」

 ぎょっとして時真に目を向けると、確かにその手に黒光りする物騒なものがあった。しかし時真は影綱に言い当てられて興が削がれたのか、それを胸元に仕舞い、乾いた笑い声を立てる。

「お前のことだ。警察はすでに呼んであるんだれう。どうせ地獄に落ちるなら、さくらと共に逝きたかった」

 そうして力なく頽(くずお)れると、それを待っていたようにパトカーのサイレンが近付いて来た。宵娯と侑惺も事情聴取のために呼ばれることを予期しながら、その場に立ち尽くす。

「侑惺、ごめんな」

 サイレンに紛れて掻き消されてしまいそうになりながら謝るが、侑惺には届かなかったようだ。


8  再会の契りへ