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ほんの一月前か、あるいはたった数日前までは世間はハロウィンで騒いでいたはずだが、木々が冬の準備をし始めたばかりにはもう次のイベントの話題で盛り上がっている。気の早い人々は、既に街中でちらほらと飾られたイルミネーションを目にしては、今年のクリスマスを誰と過ごすかという話に花を咲かせていた。大抵の場合は、家族か恋人か。あるいはイブを公にできない相手と過ごし、当日を本命と過ごす。

ふいに移り気が激しい学生時代の同級生が、毎年クリスマスを違う相手と過ごしていたことを思い出した。クリスマスに恋人と会うと別れてしまうというジンクスをつくったのも彼だった。実際には、単にクリスマスに本当に好きだった相手にふられたらしく、それを引きずって流したデマだったに違いないのだが。

クリスマス。何度もその単語を思い浮かべ、決して嫌いではない行事のことを考える。麗美と家族であることを喜ぶことができる特別な日。他人であれば、断られたら過ごせない一日を、家族だからという理由だけで必ず共にいる権利を約束された日だ。

バレンタインも、毎年義理ではあるがチョコをもらえるから、嫌いではない。しかし、丁寧に作られた一番想いのこもったチョコを誰にあげるのかと、毎度頭を悩ませられるので、優先順位をつけるならば二番目といったところだ。

ただし、その一番好きな行事も、麗美に恋人と呼ぶ相手がいない時に限った。そして今年はあの男と過ごすに違いない。その事実だけは覆らないまま、当日は強引に押し寄せてくる。

自然と眉間にしわが寄り、あくびをするふりをして溜息を押し隠す。突然来た母親にたまには家に帰ってなさいよと言われ、連行されるように車に乗せられて実家に帰ってきたのは、ほんの数刻前だ。麗美と鉢合うのを避けてしばらく遠退いていたためか、慣れ親しんでいたはずの住処がやけによそよそしい。そのうえ、母は何故か麗美まで呼び寄せていたらしく、いまはリビングで女二人、さまざまな話をとめどなく交わしている。

そこから逃げるように一人でキッチンに引っ込み、水を飲みながら物思いに耽っていたというわけだが、その単語は否応なしに飛び込んできた。

「婚約するの?」

「うん。今度、お母さんにも会わせるから」

 それを聞いた母が、年甲斐もなくはしゃいだ声を出す。ちょうど庭先で手入れをしていた父が声を聞きつけたのか、怪訝そうにしながら入ってきた。

「あなた、麗美に婚約者ができたのよ」

「そうか」

 気のない返事をしながらも、既に相手の男のことを考えている様子が明白だった。わざとらしくしかめた顔の下で、娘の婚約を喜ぶべきか悲しむべきか決めかねているようだ。

「瑠璃矢か」

 今初めて瑠璃矢の存在に気付いたように、父が声を掛ける。いくら仲がいい家族とはいえ、やはり男女の違いというのは出てくる。リビングで盛り上がる女性陣のノリについていけなくなった瑠璃矢と父は、無意識にキッチンに縮こまって苦笑いを交わす。

「仕事の方はどうだ」

 恐らく麗美の男のことを聞きたいに違いないが、わざとそれを避けるようにして全く関係のない話を取って付けたように言う。

「年末だから、ちょっと忙しいかな」 

 つられるようにして当たり障りのない返事をして、それから二言、三言やり取りをしただけで沈黙が落ちた。リビングの騒ぎも落ち着いてきいたらしく、そろそろ行っても大丈夫そうだと判断したところで、父が独りごちた。 

「あいつももう結婚する年か」

はっと父の顔を見ると、急に老け込んで見える顔で遠くを見る目付きをしていた。
「父さん、俺さ」
 何か焦るような気持ちがふっと沸いてきて、自分が何を言おうとしているのかも分からないままに口にする。しかしその時、母が瑠璃矢の声に被さるようにして、
「いつまでそんなところにいるの」
 と呆れながら笑った。麗美の方は見ないようにしていたが、彼女も笑う気配がして、ああ帰ってきたんだと、ようやく思った。
 

 


 家族との食事会は、思った以上に憂鬱なものになった。思春期の微妙な時期のように、終始体を虫が這うような苛立ちを当たり散らしたくてたまらない。しかし、そういえば自分には思春期や反抗期といったものが大してなかったということに思い当たると、今度は訳もなく笑いだしたくなる。
 フランス料理かイタリア料理か、複雑な名前を聞いただけで不快になるような無駄に豪勢な料理が並び、食器が静かに立てる金属音でさえ腹立たしかった。

それもこれも、麗美の婚約についての話題ばかりがしつこく上がったからである。予想がついていたことではあったが、麗美と久々に何か話がしたいばかりに、適当な理由をつけて逃げ出さなかった自分が嫌になった。
 聞きたくもない麗美の男の情報ばかりが事細かに頭の中に刻まれていき、それに比例して怒りが爆発しかかった。無論、理由を聞かれても困るので爆発させるわけにはいかなかったのだが。
「瑠璃矢は会ったことあるよね」
 吸ったこともない煙草を理由に席を立とうとしたところで、ふいに瑠璃矢に水を向けられる。麗美の薄く化粧をした唇にばかり目が吸い寄せられながら、あるいはそうやって気を取られることで動揺を押し隠そうとし、その試みは半分ほどは成功したようだ。キスをする妄想ばかり膨らませながら、無意識に唇を舐めた。
「ああ、あったかもしれないな」
「どんな人だった?」
 勢い込んで尋ねてくる母に圧されて、思い出したくもない記憶をよみがえらせる。仲睦まじげに腕を組む二人。その時の麗美の様子ばかり凝視していたせいか、正直相手の顔はろくに目に入っていなかった。意識的に記憶から排除していたのかもしれないが。
「さあな。どっちみち、すぐに会うことになるんだろ」
「何を不貞腐れてるの」
 当の麗美に見透かされたようで、ひやりとした。
「別に不貞腐れてなんか」
「まあまあ、姉がよその男に捕られて悔しいんでしょう」
 母の宥める言葉もある種的を射ていて、肝が冷えるのを紛らわすように溜め息をついた。
「はいはい、そういうことにしといて。悪いけど、俺、ちょっと急用思い出したから帰る。これで俺の分も払っておいて」 

 一万円札を財布から取り出して母に渡すと、母は受け取りながら、恐らく半分冗談のつもりで言った。

「麗美の次はあんたの番ね。恋人ができたら紹介してちょうだい。学生の頃から、浮いた話一つないんだから。あんたは女に興味がないんだと思っていたわ」 

「お母さん」

 麗美が母を諌めるように言って、瑠璃矢に視線を向けた。困ったようにしている様子からして、告げ口をしたわけではないようだ。今はそれだけが分かればいい。 

 軽口を叩いて誤魔化す気も起こらずに、適当に手を降ってその場を後にする。態度が不自然に見えなかったかどうかを気にしながら、余計なことに神経を使い過ぎていたせいか、外に出た途端にどっと疲労感が押し寄せた。

 

 

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