1 

 

 

 

 

 

降り止まない雨の音。乱れる吐息。粘りつく湿気。汗ばんだ地肌にシーツが擦れる感覚。
 私は寝転んだばかりの時の冷たい生地が好きだ。生温く人の体温が籠ったものは未だに好きになれない。それは事後の生々しさを伝えてくるからに他ならない。
 恋愛に幻想は抱かない。吐き気がするほど気持ち悪いこの行為に意味があるとも思えない。それなのに、私はどうしてこの男に身を任せているのだろう。
 そんなことを意識の片隅で考えながら、嘔吐しかけて震える喉の音を、甘美な悦びに真似た音に変えてみせた。そして、男の背中にせめて痛みを印そうと爪を立てかけたが、寸前でだらりと腕を下ろす。
 不意に感極まったのか、男が私の名前を呟いた。
 それを耳にすると、怖気がするほど不快な感情が膨張し、いつも以上に、恐ろしく頭が冷えていく。
 中で果てそうになる男を突き放し、辛うじて外に出させる。事後の余韻も残さずに立ち上がり、さっさと身支度をしていると、男は財布から取り出して私に紙幣を握らせた。
 それを破り捨てたら、どんな顔をするのだろう、少しは面白い反応が見られるかもしれないと思いながら、瞬きをするくらい短い間に俊巡する。最後までろくに相手の顔も見ようとしなかったくせに。
 そして、結局黙って受け取る。それを乱暴にポケットに押し込むと、無言のまま部屋を出た。
 男は追いかけてくることもなかった。所詮それだけの関係で、追い縋られても困るだけだが、妙に虚しく、冷気がいつも以上に堪えた。
 センチメンタルにも、雨に打たれたい気分だったのだが、無情にも天は味方しなかった。ホテルを出てしばらく歩くと、雨は小降りになり、慰め程度の霧雨となって、包むように柔らかく濡らすばかりだ。
 それでも湿気を含むには十分だったので、衣服が重みを増し、次第に体温を奪っていく。私はぶるりと身を震わせると、ぼんやりとした頭で交差点に立った。
 点滅する信号。水溜まりに反射したヘッドライト。人工的な明かりだというのに、妙に煌めいて見える。荒んだ気分の時は全て濁って見えるのだから、今は思ったよりそうでもないらしい。
 他人事のように自分を分析しながら、信号が変わる寸前、ふと横断歩道の向う側に目を止める。そこには一組の男女がいた。一目でただのカップルではないなと察した。
 一見、二人の距離感は確かに近いのだが、妙にぎこちない。違和感を覚えてよくよく観察すると、男は笑顔で女に何かを言っているのだが、女は顔を俯けて無視をしているようだ。それだけ見ると単にナンパに捕まった哀れな女なのだが、そうではない証拠に、女は男に腕を絡ませている。そう、ごくごく自然に。
 ただの痴話喧嘩とも違う、緊迫した何かを直感で察したのだが、それが何なのかはっきりしない。そのまま何となく観察を続けているうちに信号が変わり、横断を促す間の抜けたメロディーが鳴り始めた。
 私は我に返り、二人から視線を逸らして歩き出した。あの男女もこちらへ歩いてくるのを視界の端で認める。何故だか私は自分の鼓動が嫌な具合に暴れ始めるのを感じた。
 わけもなく、このまま無事にすれ違ってほしいと願っていた。そして、その男女とすれ違う瞬間のことだった。
 突然、金属が擦れるような甲高い音が耳に突き刺さる。周りの視線が、私に向けられたかに思われたが、正確には私の隣にいた女を見ていた。
 女の手に硬質な光を放つ何かが握られており、それが男に真っ直ぐ向けられている。横断歩道の真ん中ということもあり、人々は慌てて逃げ惑い、我先にと向う側へ渡っていく。私もそうするべきだった。しかし、女に刃物を向けられた男を見て、思わず足を止めていた。
 男は笑っていた。そして、さもどこからでもかかってこいと言わんばかりに両腕を広げている。
 その時、メロディーが終わりを遂げて、私は咄嗟に男の腕を掴んで引っ張った。そして抵抗されないことをいいことに、そのまま男を連れて渡りきっていた。
 男が私に腕を掴まれたまま、背後を振り返る。私もつられて振り向くと、女は追いかけてくることもなく、その場に立ち尽くしていた。
 クラクションが鳴り響く中、女は刃物を振り上げる。私の声は周囲の悲鳴に掻き消され、女が倒れていく瞬間まで目を逸らせずに見続け、足が地面に貼り付いたように動かなかった。
 私が立ち尽くしている間に、誰かが呼んだ救急車が到着し、女は運ばれて行った。その間、男は女に付き添って行くのを渋り、そればかりか私の方をちらちらと見てくる。
「悪いが、君も来てくれないか」
 救急車に同乗するのを断って、後からタクシーで付いていくまでは分からなくはない。しかしただ男の腕を引っ張っただけの私が付いていくのはおかしいのではないか。
 そう思いながらも、その時点で抜け出せない沼に足を掬われたような気がして、腹をくくった。
 タクシーの中でも、男は少しも取り乱した様子はなかった。いかに冷徹な心を持つ人間であっても、そしてたとえあの女が男の恋人でなかったとしても、目の前で人が自殺行為に走ったのを見て冷静でいられるものだろうか。見ず知らずの私でさえ、今でも気を抜くと震えだしそうなほどであるのに。
 近くの総合病院につくまで、男と私は一言も言葉を発しなかった。私は私で、何を言えばいいのか分からないのもあったが、男も男で私に何も説明する気になれないのだろう。
 それから、二人して女の病室に向かった。その際、ネームプレートを見て、女が石井絵麻というのだということを知った。救急治療室に行ったのかと思ったが、石井は既に真っ白いベッドの上で安らかに眠っている。安らかにというとまるで永眠したようだが、そうではない証拠に、顔に布は被せられておらず、呼吸に合わせて胸元が上下している。
 看護師の説明によると、幸い刃物で刺した箇所は傷が浅く、臓器まで達していなかったらしい。どちらかというと石井の精神状態の方が危うかったようで、鎮静剤を打って眠ってもらっているということだ。
 男は看護師が去ると、静かな病室で深く息を吐いた。それが安堵のためか、そうではないのか分からないが、表情を見てみると、恐ろしく何も浮かんでいなかった。ただ、酷く疲れが溜まっているような印象はある。
 私はどうにも場違いな気がして、ひたすらにその場の空気を乱すまいと沈黙を保っていると、男はふいに顔を上げて私を見た。その瞳には、底のない深淵が潜んでいるようで、一瞬どきりとする。それは見覚えのあるものによく似ていた。
「この後、少しお時間をいただいても?」
 男は野性的な鋭い目つきで私に尋ねた。警戒を煽るものであるはずが、私は男に興味を抱き始めてしまっていたので、頷いた。
 病院のロビーにある喫茶店に来ると、窓際の席に男と向かい合わせに座る。そして私はアイスティーを、男はブラックコーヒーを頼んだ後、名乗った。
「俺は藍沢(あいざわ)徳人(のりと)。あなたのお名前は」
時宮(ときみや)汐里(しおり)です」
「時宮さん、遅くなりましたが、先ほどはありがとうございました」
 私が首を傾げたのは、藍沢が少しもありがたがっていないように見えたからで、何に対してのお礼かは分かっている。しかし、藍沢は勘違いしたらしく、私に説明した。
「ほら、さっき腕を引っ張ってくれたでしょう」
「ああ、はい」
 一つ頷いてから、私は藍沢を真っすぐに見つめて言った。
「でも、全然嬉しそうではないですよね」
「……ええ、それは、まあ」
 少しは動揺するのかと思ったが、藍沢は曖昧に濁しただけで、逆にこちらが戸惑うほど強い視線を向けてきた。そうやって、数秒間の睨み合いのようなものがあった後、藍沢はやがて口元だけに笑みを浮かべる。
「いっそあのまま俺を刺してくれた方がよかった」
 よくもお前は邪魔をしてくれたとでも言うつもりなのかと身構えるが、そう続けることもなく、ただ藍沢は疲れたように溜息をつく。そうしながらも、その視線は私に当てられたままで、いっそ値踏みでもするように全身を舐めるように見ている。
「それで、私に何をしてほしいんですか」
 藍沢が説明するつもりもないことは明白で、言葉よりも雄弁にその表情が語っている。だが、瞳には一切隙がなく、奥底に潜り込んだ真意を探ることはできない。
「聞かないんだね。俺と彼女の関係、そしてなぜああなったかを」
「説明する気はないんでしょう」
「それはね。何しろ初対面だし」
 藍沢は何か面白いおもちゃでも見つけたような顔つきで、楽しそうに続けた。
「でも、初対面じゃなくなれば、そのうち教えてあげるよ。嫌というほど」
 藍沢の誘い方はストレート過ぎて、その裏に何かがあることは目に見えていた。分かりやすい罠にはまるのは馬鹿げている。馬鹿げているのだが、私は好奇心に抗えなかった。そうして、藍沢と私の奇妙な縁はつながったのだ。
2へ