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腑に落ちないんだよねぇ。

連休中の混雑したファミリーレストランにいながら、彼女の声は誰よりも真っ直ぐに瑠璃矢の鼓膜を揺さぶった。特別澄んでいるわけでも、張り上げられたわけでもない単なるぼやきだったにも関わらず、あちこちでたむろして騒いでいる集団の笑い声に埋もれることもなかった。
 本当はそれはぼやきというよりも、瑠璃矢に向けられた台詞だったに違いない。

すっかり冷めて温くなったコーヒーを意味もなくかき混ぜながら、彼女の声が聞こえなかったふりをする。波立った深いコーヒーの底に溺れてしまう自分を思い浮かべて、まるでその自分を溺死させるかのような勢いで、没頭してかき混ぜ始めたところで、彼女が席を立つ気配がした。
 やっと解放されるのかと安堵の息をついて顔を上げると、彼女は瑠璃矢の存在を忘れて電話の相手との会話に熱中していた。決して瑠璃矢に向けられることのない女の顔をしている。会話の内容は分からないが、その相手は容易に想像がついた。
 立ち去りかけたところで、ふと何かを思い出したのか、彼女は瑠璃矢に目を向けると、片手で謝る素振りをして財布から小銭を取り出そうとする。それに手を降ってみせると、彼女は礼も何も言わずに店を出ていった。その間際、店員に何事か説明していた気がする。弟に支払いをさせますのでとでも言う彼女の声が耳元で聞こえてきそうだ。
 何の祝日かは忘れたが、月曜日のありふれた一日が過ぎ去ろうとしている。周りの談笑を遠くで耳にしながらぼんやりとコーヒーを眺めていると、次第に甦る記憶が表面に浮かび上がってきた。
 それは彼女の泣き顔だったり、笑顔だったり、怒った顔だったりして、幼いものから徐々に大人へ成長していく。
 思えば瑠璃矢の記憶にはいつも彼女がいた。この世に生まれ落ちたその瞬間から、瑠璃矢には彼女が全てだった。それは大げさではなく、紛れもない事実だ。幼い頃を振り返ると、彼女のことばかりしか覚えていないのが何よりの証拠で、瑠璃矢の感情の動きは常に彼女によって左右され、もはや心の一部どころか大半を占めている。
 どこにでもある普通の家庭で育ち、家族はみな仲が良かった。取り立てて裕福とは言えないが、貧しい生活を強いられたこともなく、何のトラブルも生じないまま成長した。瑠璃矢と姉の麗美が仲が良すぎることを除いて。
 正確には、仲が良すぎることはさほど問題ではない。幼少期は微笑ましさを誘い、思春期に入れば多少珍しがられるだけだ。それでは何がと問われると、瑠璃矢が麗美に対して姉以上の感情を抱いてしまったせいだと答える他ない。
 瑠璃矢にとって、麗美を慕う気持ちは呼吸をするよりも当たり前にあり、周りから異常だと思われようとも、自慰をするときは決まって麗美を思い浮かべ、それ以外はあり得ない。世間では決して理解されないと知った瞬間から、墓場まで持っていくことにした秘密だ。
 それを危うく表面に出しかかったのは、麗美に恋人が出来た時だった。自分と同じ感情を抱いてくれることを望んでも仕方がないと知りながら、恋人の存在を恨み、その立場を妬ましく思い、どうしてその相手が自分ではいけなかったのかと問い詰めたくて、何度も獣のような激情を堪えた。
 気持ちが手に入らないならば、せめて体だけでもと血迷った考えに取りつかれ出した時、持て余す感情の捌け口を求めてたどり着いたのが街中のいかがわしいバーだった。行きずりの相手とベッドに入ることに抵抗はあったが、それで行き場のない怒りを抑えられるならと入ってみると、薄暗い店内には奇妙なほど男ばかりしかいないようだった。
 違和感を覚えながら一人でカウンターで飲んでいたが、絡んでくる客も何故だか男性ばかりだ。そこでようやくこの店がそういう所だと気が付いたのだが、焦りは一瞬で投げやりな気持ちと計算にすり替わる。

どのみち、他の異性だと麗美と比べてしまうに違いない。それならばいっそ同性の方が楽かもしれないし、万一麗美に気付かれても、よもやそれがカモフラージュだとは思われないだろうと。問題なのは、瑠璃矢が同性相手にちゃんと機能するかどうかだが。
 そして次に声をかけてくる相手と一夜を過ごしてみようと決めたのだが、腹をくくった時に限って誰も近寄って来ない。そこで、瑠璃矢と同じようにカウンターの隅に腰掛けていた男に自ら声をかけた。それが榊嗣仁だった。

 

 

 


 そこまで回想に浸っていた時、ポケットの中から振動が伝わった。ちょうど思い浮かべていた通りの人物からの連絡だったので、目を見張ったのだが、一瞬の後にそれもそのはずだと思い直す。

麗美と話が終わる頃合いを見計らってかけてきたのだ。どうせかけてくるぐらいならば、直接迎えに来ればいいのにと思いながら電話に出る。
「この世の終わりみたいな顔をしているな」
 からかい混じりに言われて、顔が見える位置にいると知った瑠璃矢は辺りを見回す。店内には人が溢れていて、どこにいるのか分からない。
「窓の外だよ」
 言われるままに、夕陽が射し込むガラスの向こうに視線を移動させると、サングラスをかけた長身の男が街路樹にもたれていた。一応麗美にばれないようにサングラスをしていたのだろうが、驚くほど近い位置だ。これでは彼女が気付かないはずもない。
「取り敢えず場所を変えるか」
 文句の一つでも言ってやろうとしたところで、あっさり遮られて通話が途絶える。いつものことだが、嗣仁のペースに流されていく。初めは大型犬のように人懐っこい印象で、こちらに合わせてくれていた気がするが、彼の場合はそれも計算の上だったのかもしれない。もしくは単に馴れて素が出てきただけなのか。
 考えても仕方がないことをとりとめもなく思いながら会計を済ませ、騒がしい店内を後にする。たちまち肌寒い空気に包まれ、無意識に身震いをすると、近付いてきた気配に肩を抱かれた。
「こんなところでやめろ」
 軽く睨みつけてみせるが、嗣仁はふざけるでもなく真面目くさって応える。
「こうすれば温かいだろ」
 自分の方がよほど冷えているじゃないか、という言葉は飲み込んだ。じゃあ温めてくれるかと親父くさいことを言われるのを免れるためでもあり、こんなに冷えるまで待ってくれていたことに気付かないふりをするためでもあった。
 

 


 明日は互いに仕事だったはずだが、嗣仁が選んだ場所は居酒屋だった。それもわざわざ予約制の個室付を選んだ理由は分からない。思ったより店内が静かだったのは良かったが、一応周りには聞かせないようにとの配慮だろうか。
「それで、お姉さんはどうだった」
 店員が注文を取り終え、居酒屋ならではのこってりしたつまみが並んだところで、嗣仁はさも真面目に聞いていますという体で、その実は楽しんでいそうに聞いてきた。
 たちまち、腑に落ちないんだよねえと呟いた麗美の声が甦る。

あの時、顔を見返して弁解やら何やら言ったところで、どれも嘘っぽくなるに違いないと焦る気持ちもあったのかもしれない。聞かなかったふりを決め込んで黙り込んでいたが、あれでは疑ってくれと言っているようなものだった。むしろ自分は見抜いて欲しかったのか。情けない答えにたどり着きかけて、それを誤魔化すように酒に見立てた烏竜茶をぐっと煽った。
「なんだなんだ。酒でも飲みたい気分か。注文してやろうか」
 どこか他人事のようにからかいを含んだ声で言われ、憮然として別にと返す。
「俺が家族にばれた時なんか、家を追い出されたからな。半ば勘当される勢いだった。それに比べれば、話し合いに持っていってくれる方がいいじゃないか」
 むっつりと黙り込んだのは、なにも嗣仁の態度に腹が立ったわけではない。それもあるかもしれないが、大半は不機嫌なように見せかけて考え込んでいるのを隠すためでもあった。
 嗣仁がふざけて瑠璃矢の腕を取り、白昼堂々人目も憚らず恋人関係をちらつかせて歩いていたのは、たった一、二時間ほど前だ。それを振り払うのも億劫に思えて、酔っ払いを介抱しているように見えなくもないだろうと高をくくっていたところ、運悪く麗美に出くわしたのだ。
 麗美を姉だと知らなかった嗣仁だが、取り敢えず二人の様子から知り合いだと察してくれ、瑠璃矢と距離を取った。そして麗美を姉だと知ると、その辺ぶらぶらしてくるから、と言い置いて退散した。そのときの行動を思えば、なんら嗣仁に罪はない。
 むしろ迂闊だったのは、嗣仁と距離を取って友人に見えるように歩いていなかった瑠璃矢の方である。そしてこうなることを望んでいたはずなのが、その場になると動揺を隠せなかったのが滑稽だった。しかしその動揺がかえってうまい具合に作用し、単に「自分の特殊な性癖が身内に暴かれて動揺する弟」の図が出来上がったことを祈る。
 腑に落ちないんだよねえという麗美の言葉がいつまでも反響している。それは、弟が同性愛者だということに違和感を覚えたという意味だろう。その言葉を反駁し、煩わしく思うどころか心地よく感じているうちに、するりと言った。
「腑に落ちてもらっても困るんだけどな」
 特に意識せずに溢れた本音は、その時不意に上がった誰かの笑い声に紛れ、嗣仁に聞き咎められることもなかった。
 

 

 

 

嗣仁と体を重ね、本当の同性愛者のように愛し合えたら楽だと思うこともないとは言えない。見た目は申し分なく、同じ男として羨ましいほどだったうえに、性格もやや強引なところを除けば(それにも馴れてしまえば)特に難ありという部分はない。
 しかし実際のところ、初めから体の関係などなかった。嗣仁は瑠璃矢より幾分か年上のせいもあるかもしれないが、大人の余裕か、もしくは見栄を張っているのか、がつがつした様子は見せない。明らかな好意は透けて見えるほどだったが、そうしない理由を問い質すつもりは瑠璃矢にもなく、まるで初めて恋人ができた同士のように健全な付き合いをしている。
 それならそれで大いに結構だが、しないせいで尚更利用している気にさせられるので、居心地が悪いと思うことも多々あった。その一方で、同性と出来るかどうかを確かめる必要が今のところないことに安心し、嗣仁も他に本命がいてよろしくやっているのかもしれないと考えて気が楽になったりもする。
 そもそも自分たちは、付き合っているどころかただの友人で、単に出会った場所が場所なだけかもしれないと思いかけたところで、反論するように嗣仁は口付けてくる。
 初めは嫌悪し、反射的に突き飛ばそうとした。しかしそれも堪え続けるうちに馴れてきて、次第に何も感じなくなった。人目のある場所で仕掛けてきた時は問答無用で振り払うが、それを学習した嗣仁が、きちんと周りを確めてするようになってくると、死んだようにやり過ごす他ない。
 麗美以外にまともな相手と付き合えるはずもなかった瑠璃矢は、当然ながら誰ともキスさえ経験したことがなかった。普通は初めてを大事にするものかどうか分からないが、思った通り好きな相手以外では気持ちのいいものではない。している最中は常に彼女を思い浮かべるが、嗣仁の男物の香水が鼻腔をくすぐって邪魔をする。
 麗美は香水などつけていないようだが、代わりにいつも彼女専用のシャンプーや体臭が甘く香った。決して強い匂いではないのだが、ある程度近寄るとすぐに麗美だと分かり、妙に瑠璃矢の性欲を刺激する。
 麗美。心で呟いた途端、嗣仁の口付けが深くなり、歯列を割って侵入してくる。それまでそんなキスを仕掛けられたことがなかったので、及び腰になると、許さないというように腰周りをがっちりホールドされた。
 許さない。そうだ、許さなくていいんだ。自分の頭に浮かんだ台詞に笑いそうになる。実際に喉の奥で笑ってしまったのだろう。嗣仁が荒っぽいキスを止めて、瑠璃矢の瞳を覗き込んできたのだから。
 唐突に我に返り、現実感が恐るべき早さで戻ってきて、瑠璃矢のアパートの玄関口にいたことを知る。辛うじて扉は閉めているが、鍵さえかけないまま嗣仁に捉えられていたことに思い当たると、深く考えずに言った。
「上がってく?」
 どうしてすんなり言えたのかは分からない。その言葉は、暗にその後のことを予想して口にしたと思われても仕方ないが、訂正しようという気持ちも何故だか起こらなかった。言った本人よりも言われた側が、正気かと書いてある顔をして恐る恐る頷いて見せる。
 もしかしたら嗣仁は、麗美が相手だとは思わないだろうが、瑠璃矢が本当は同性を愛せないことや、初めてなこと、本命が他にいることは全て知っているのではないかと思った。
 冷静にそういうことを分析し、この後起こることも他人事のように考えている自分を、もう一人の自分が奇妙なものでも見るように見下ろしていた。
 

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