序章

 その年の桜ほど美しく、むせ返るほどの香りを惜し気もなく放ち、扇情的だったことはなかった。彼女のことを思い出す時は、決まって妖艶に咲き誇る桜の群れが真っ先に浮かんだ。そしてその花々に抱かれるようにして、彼女はふわりと立っている。まるで彼女そのものが桜の一つであるというように、儚く、怪しい美しさのある情景だった。 
 初めて彼女を目にしたのは、大学の入学式の日だった。桜並木の中に佇み、舞い散る花弁を見つめて頬笑む彼女は、誰もが一目で心奪われるほど美しく、 影綱も一瞬で囚われる。それは恋と呼ぶにはあまりに淫らで、生々しい欲望を抑えられなくなるような衝動だった。 
「あなたはここの生徒ですか」 
 引き寄せられるように近付き、どこか夢見心地で問いかけた時、頭が痺れるほどの芳しい香りがした。まるで麻薬に溺れていくように、それを嗅いでいると理性が音を立てて壊れていくのを感じた。 
「ええ。あなたは?」 
 彼女に笑いかけられただけで天にも昇るような心地がして、その後どういう言葉を交わしたのか、はっきりとは思い出せない。それだけ熱に浮かされながらも、彼女の名前だけは宝物のように繰り返した。「さくら」と。 
 それからは、どうにか彼女に近付けないかと必死になったものだ。しかし当然ながら競争率も高く、友人の時真もその一人だと知ると、焦燥に駆られ、何度も諦めかけた。それでも、その時に時真が、 
「どっちがさくらさんと付き合えても、恨みっこなしだ」 
 と朗らかに言ってのけたのもあり、粘り強く彼女一筋に頑張ると、見事に付き合うことが出来た。 
 それからは実に光のような速さで結婚するに至る。幸せの絶頂であったはずなのだが、さくらは時折悲し気な淡い笑みを見せた。 
「どうしてそんな顔をするんだ」 
 お腹に新しい命を宿したさくらが、またあの顔をするので、影綱はついに尋ねた。 
「私のせいでこの子も不幸にさせるのかと思うと、泣きたくなって」 
「どういうことなんだ」 
 理由も分からず、それでもさくらの今にも泣き出しそうな顔を見ると、ただ事ではないと察した。 
「あなたに大事な話があるの。どうか、最後まで聞いてほしい」 
 さくらにそう言われた時、影綱は胸騒ぎを覚える。もともと、彼女には異様なほど人を惹き付ける何かがあって、それは「魅力」という言葉では言い尽くせない危うさを纏っていたことは、影綱も常日頃から身に覚えがあった。 
 そして男も彼女のそれに引き寄せられた一人だということも、まごうことなき事実であると分かっていた。だからこそ、そんな彼女に実は他に何人も相手がいると打ち明けられようが、驚かないし、責めるつもりはない。そう密かに心に誓っていたのだ。 
 それでも、何か得体の知れない予感があった。どちらにしろ彼女の話を聞けば理由は判明するのだと影綱が自分に言い聞かせてみながら、どうにか気を沈めていた時に、彼女はぞっとするほど美しい涙を浮かべながら告げる。 
「あなたにずっと隠していたことがあるの。実は私――」 
 予想を遥かに超えた現実が影綱に迫る。 
 彼女と同じ名前の花が、窓の外で緩慢に揺れ動き、一片の花弁を散らせた。 
 
     それから何年かの月日が流れ、影綱は研究員として生きていた。白衣がないと不安になるほどに常に身に付けて、執念さえ感じさせる気迫で研究に臨む。全ては、彼女のためだった。しかし、研究で思うような成果は未だに得られていない。 
 溜め息を噛み締めながら、数多くのコンピューターが並ぶ無機質な部屋で、影綱と同様の白衣を着た数人の研究員とともに、中央に設置されている巨大なカプセルを静かに見つめる。 
 カプセルの中には、一人の美しい女が横たわっており、その周りを薄桃色の花びらが埋め尽くしていた。さながら、棺桶のようだ。 
「彼女は、もう目を覚ますことはないだろう」 
 その場にいた誰もが、思い浮かべながらも口に出来なかった言葉を、影綱が代弁する。一九〇近くはありそうなほどの長身に加え、堂々と腰を据える様は、いつも見る者を頼もしくさせたのだが、今の影綱の有り様は寧ろ危うく感じるほどに悲愴感に満ちていた。
「――辛いですか?」 
 影綱の隣に並ぶ男が、言外に「止めますか」という意味を含ませて尋ねる。影綱の姿が見るに耐えなかったせいだ。 
 しかし、尋ねられた影綱は、涙を堪えるように震えた後、深く息を吐き出して告げる。 
「いや、問題ない。彼等の肩を持つ人々から惨いと罵られようとも、続けなくてはならない。それが彼女へのせめてもの手向けになるはずだ」