5 恵みの雨

 連日の雨に鬱屈とした気分になる者も多いと聞くが、侑惺は違うようだった。なんでも、彼の祖父に当たる人物が変わり者で、大の雨好きだったらしい。恵みの雨だという昔ながらの言い伝えに加え、雨に打たれた者は苦しみから救われると信じ込んでいたという。それを耳にたこが出来るほど聞かされ続けた侑惺は、つい雨の日に傘を忘れがちになる。 

 それを聞いた宵娯は、彼とは別の意味で雨の日が好きになった。電車で会うこともある彼と、運が良ければ学校まで相合傘をすることができるからだ。その間、侑惺と仲の良い有沢と三人になることもあるが、何かを察してくれているらしい有沢は、あまり遭遇しないようにしてくれている。 

「宵娯、電車が止まったらすぐに連絡してちょうだい。今日の雨は酷いみたいだから」 

 ニュースで予報を聞いた義母が、登校しようとしていた宵娯に声をかける。今は雨はそれほど降っていないが、雷鳴が轟いていた。 

「分かった。行ってくる」 

「気を付けて」 

 義母の声を背に家を出ると、大振りの傘を開いて歩き出したが、ふと侑惺の祖父の言葉を思い出して傘をずらし、雨に打たれてみる。神聖な気持ちになるかどうかは分からないが、どうか侑惺と今日も登校できますようにと願いを込めてみると、叶うような気がした。 

 軽い足取りで駅のフォームまで向かうと、ちょうどタイミングよく到着した電車に乗る。雨の日は混雑しているのが常だが、何故だか今日に限ってはさほど混んでいない。それに気をよくしていると、何個目かの駅で待ち望んだ彼が乗り込んできた。 

「侑惺」 

 すかさず声をかけるが、電車の音に紛れて聞こえなかったのだろう。侑惺はこちらに気づく素振りがなかったので、近づいて行った。目の前に立つと、ようやく宵娯に気づいた侑惺が、目線で隣に座るように伝えてくる。 

「おは――」 

 電車の轟音に呑まれないように大きな声を出しかけたところで、侑惺が唇に指を当て、声を下げるように示した。そして、目線で隣を見るように告げる。 

侑惺にしか目がいっていなかったせいで気が付かなかったが、隣には赤子を抱えた母親と思われる女性がいた。どうやら腕の中で眠っているらしく、これを起こさないようにと侑惺は言いたいのだろう。 

 思わぬ優しい一面につい笑みをこぼしてしまうと、侑惺がもの言いたげに宵娯を見た。その耳元に顔を寄せて告げる。 

「優しいんだな」 

 すると侑惺は揶揄われたと勘違いしたらしく、むっとした顔つきをした。 

「別に、そんなんじゃない」 

「揶揄ったわけじゃない。そういうところは侑惺のいいところだ。ますます惚れてしまうな」 

 語尾を小さくすると、ちょうど電車の音に紛れて聞き取れなかったらしく、侑惺が間近で不思議そうに宵娯を見た。揺れでも起こって傾いてしまえばキスの一つは奪えただろうにと思うほど、無防備な距離だ。 

 しかしアナウンスがかかり、次の駅で到着することを知ると、自然とその距離は離れた。心臓が騒いで、どうしようもなく触れたくて堪らないのに触れられないという宵娯の葛藤を置き去りにして、滑るように電車は駅に近づいていく。 

「桜庭、降りるぞ」 

 蹲って動機を鎮めていると、侑惺が声をかけてくる。顔を上げて侑惺を見ると、彼はさっと視線を逸らして先に立って歩き出した。 

 それを追いかけて駅を出ると、雨はいよいよ本降りになってきていた。 

侑惺は天気予報など見たりしないのだろうか。やはり今日も傘を持っておらず、売店で買おうというつもりもないらしく、宵娯の傘の中に当然のようにして入ってくる。大振りの傘のため、少し離れても肩が濡れることはないが、敢えて距離を詰めることにした。 

「侑惺、得意科目はあるか」 

「これというものはないけど、苦手なものもないな。強いて言えば、俺は理系に進もうと思っているから、そちらを特に頑張っている」 

「そうか」 

「桜庭こそどうなんだ。よく教師に呼び出されているようだけど、授業についていけてないとか?」 

 宵娯の事情を知らない侑惺は、単に勉強が不得意だから呼び出されていると思っているようだ。敢えて隠すことでもないが、何となく機会を逃してきた。 

 それに、今は伏せておくことで、後で学力を伸ばした時に伝えると驚かれるかもしれない。何しろ今、宵娯は勤勉と言われても過言はないほど勉学に勤しんでいる。それは、多少は感心されることを期待してということもあるが、単に侑惺への気持ちを他へ向けることで紛らわそうとしているためでもある。そして、そのまま伝えないことに決めた。 

「俺の成績が伸びてきているからではないかな。次の試験は赤点を取らない自信があるぞ」 

「何だよそれ。かなり低レベルだ。勉強出来てない証拠じゃないか」 

「いつかは侑惺を超えて見せる。待ってろ」 

「言ったな。じゃあ超えた時は何でも一つ言うことを聞いてやる」

 どういうつもりでそんな台詞を口にしているのだろう。宵娯が侑惺に願うことなど、決まっているというのに。

 最も叶えたいことは、当然侑惺と恋人になることだ。その願いは今すぐにでも叶えたいが、それが叶わないことは知っている。だとしたら、せめて一度くらいは二人で出かけたい。

 友人としてならそれも叶うだろうと、それを口に出してみると、侑惺は一瞬驚いた顔つきをして、何故だか困ったように笑った。

「そんなんでいいなら、いつでも叶えてやるから、もっと他にないのか」

 期待させないでほしかった。人の気も知らないでと怒りをぶつけたくもなる。無意識にそうして宵娯を振り回しているなら、侑惺はとんだ魔性だ。

 どこにもぶつけられないそんな八つ当りじみた言葉が頭の中を駆け巡り、上手い台詞を思い付かずに黙りこんでしまった。

 そしてそんな宵娯を見て、侑惺はただ残酷に答えを待っている。憎たらしいのに愛しい、という思いを込めて見返すと、侑惺が急に俯いた。

「侑惺、俺はーー」

 辛い、苦しいと片想いの相手に訴えたところで、何になるというのだろう。互いが苦しむだけではないか。そう分かっていながら、ただ侑惺のつむじを見つめて告げた。

「いくら侑惺が振り向いてくれなくても、辛くても、ずっと好きでいると思う。俺の願いはただ一つ、侑惺に好きになってもらうことだ」

 雨音に掻き消されないように、はっきりとした声で言いながら、侑惺の反応を待たずに、いつの間にかたどり着いた下駄箱で傘を畳む。そして侑惺を置いて、逃げるようにその場を後にした。

 答えを聞くのが怖かった。拒絶されることを新鮮に思い、楽しんでいたあの頃に戻りたい。恋を自覚して初めて、嫌われるという痛みを知った。いっそ侑惺に恋をしなければ、他の無条件に愛情をくれる誰かなら良かったと思ったところで、どうにもならない。

 恋愛が自分でコントロール出来ないものだと身をもって痛感した。

 

 

 午後になると、いよいよ嵐でも来たのかと思うほど雨風が強くなってきた。電車通学に限らず、徒歩の生徒も一斉に帰宅を促され、皆親や友人の親に送ってもらおうとしている。念のため宵娯も電車の運行状況を調べたが、やはり運転見合わせとなっていた。

「宵娯、俺の親に送らせようか」

 烏山が申し出てくれるが、取りあえず義母にメールを送り、5分と経たずに了解の意が来たことを伝えると、非常に残念がった。

「じゃあ、せめて親が来るまで」

 と、無駄に必死に懇願されたので、揶揄つもりで肩を抱き寄せてやると、分かりやすく赤面する。調子に乗ってそのまま顔を近付けた時、誰かが廊下を歩いてきた。

「桜庭」

 鋭い声が飛んできたかと思うと、その声の主はずかずかと教室に入ってきて、宵娯の目の前に仁王立ちした。何故か苛立った様子で烏山を見るので、烏山と距離を取ってから侑惺に問うような視線を送る。

「桜庭、俺を送ってくれないか。親は出張でいないんだ」

 それはわざわざふんぞり返って言うことだろうかという突っ込みを入れたい気持ちもあったが、それよりも侑惺と帰れるという状況が嬉しくて、雨に感謝したい気持ちで溢れた。

「何だよ、羨ましいな」

 と文句を垂れながら、烏山は親が来たらしく、手を降って帰っていく。

 教室にはまだ何人かの生徒が迎えを待っていたが、宵娯は侑惺と二人きりになりたかった。それを口にしようとしかけたところで、侑惺が図書室に行こうと言う。宵娯は即座に頷いた。

 まだ開いているか心配だったが、司書の先生が図書委員の代わりに残っていたらしく、あと30分で閉めるから、君たちも早く帰りなさいとだけ言った。期待通り他には誰も図書室にはおらず、外で稲光りが走ると、続いて強風が窓を揺らした。

「桜庭、ここに来たのは他でもない」

 唐突に切り出した侑惺は、いつの間にか手にしていた勉強道具を広げる。そして時計をかくにんしたので、あと一時間はかかると伝えた。

「一時間、いや30分あれば十分だ。桜庭の勉強を見るためには」

「俺の勉強を?」

「だって今朝、桜庭が言っていただろう。次の試験は赤点は取らない自信があると」

「ああ、それが?」

「俺が勉強を見てやるからには、赤点どころかクラスのトップにしてやる」

 そう言ったかと思うと、にやりと口元に笑みを浮かべながら、早く席に着くように宵娯を促す。この状況は素直に喜んでいいものか悩むところだった。何故なら、もし侑惺の成績を越えてしまえば、宵娯の言うことを何でも一つ聞いてやるというあの言葉が有効かどうか分からなかったからだ。

「何を躊躇っている」

  怪訝そうに聞かれて、侑惺は今朝のことは綺麗に忘れているのだと判断した。落胆のために思わず溜息が出ると、侑惺が何かに気付いた顔をして、ああと呟く。 

「今朝のことだけど、後でその話をしよう」 

 まさか切り出してくれるとは思わなかったので、抑えようと思っても喜びで顔が緩んだ。それを見て、侑惺は早く座るようにと目で促してくる。それに従って素直に着席すると、早速問いかけてきた。 

「桜庭、まずはどれが一番苦手か教えて」 

「理数かな」 

 本当はどれも同じぐらいできないのだが、敢えて侑惺が得意なものを選んだ。 

 こうして三十分の間勉強を教えてもらうことになったのだが、侑惺は教え方が上手くて、教師よりも分かりやすかったので随分と捗った。司書の先生に追い出されるまで真面目に取り組んだ後、誰もいない廊下を二人で歩いている時に侑惺が言った。 

「まず桜庭、言い捨てて逃げるのはやめてほしい。せめて俺の返事を待ってくれ」 

「ああ……」 

 だが、侑惺の返事を聞くのが怖かったんだと、臆病な自分の声を無視して平気なふりを取り繕う。侑惺に本気になった途端、目まぐるしく自分の性格まで変わってしまうようで、今は以前のように余裕をもってこの状況を楽しめず、少し怖かった。 

「俺は前にも言ったように、桜庭の気持ちには応えられない。それは変わらない」 

「……分かっている」 

 それでもいいと言ったのは自分だ。友人という関係をようやく手に入れ、傍にいる権利をもらっただけでも満足しなければいけないのに、どんどん欲深くなっている。相手に受け入れられないと知っているからこそ苦しいのだが、少しでも可能性を見出すと調子に乗ってしまいそうになる。 

 気まずい沈黙が流れ、侑惺の言葉はそれで終わりかと思われたが、まだ続きがあった。 

「でも、俺は桜庭の気持ちが嫌なわけではない。それだけは伝えておきたかったんだ。だから、俺が桜庭を好きになるという願い以外なら、何でも」

「お前はずるいな」

 思わず、苦笑とともに呟いていた。侑惺が動きを止める。その目を真っ直ぐに見つめながら、泣き出しそうな声を絞り出した。

「そう言われたら、諦められないじゃないか」

 中途半端に優しくしないで欲しい。いっそ自分を詰ってくれたら。嫌いだと、可能性は一ミリもないのだともっと拒んでくれたなら。

「桜庭」

 泣きそうになったのは本当だが、心配そうに声をかける侑惺の顔を見ているのが辛くて、顔を俯かせる。

「ごめん。桜庭、俺ーー」

 困ったように謝る侑惺の声を聞いていると、辛さよりも次第に悪戯心が沸いてきた。侑惺が覗き込むように見てきた瞬間、頬を捉えて口付ける。

「なっ、おい桜庭!」

「いいだろうこれくらい。仕返しのつもりだ」

「し、仕返しって」

「どうした、顔が赤いぞ。熱でもあるのか」

「やめろ、近付くな!」

 慌てふためく様子を見て笑いながら、いつか合意の上でキスができる日を雨に願う。ちょうど聞き届けられたように雷鳴がした。



6  忍び寄る過去へ