もがき苦しむ男

             

 

 ルエルは男に連れられて数年ぶりに地上に出た。寒々しい空気さえもどこまでも澄み切っていて、肺の中に閉じ込めるように吸い込んだ。

 昼間だとルエルの存在は悪目立ちするということで、時間の感覚はとうに狂っているのだが、恐らく深夜の時間帯に男の車に乗り込んだ。

 罪人を買い取るくらいだからその道のプロかとも思ったが、男の身なりや車の様子、そして何よりも風貌から、まるきり裏稼業とは無縁の単なる金持ちのようにしか見えない。

 ルエルが値踏みするようにじろじろと眺めているのに気が付いたのか、男は車を発進させながら話しかけてきた。

「その手錠、屋敷についたら取ってあげるよ。僕はエドウィン・ジョーカー。君は見たところ、僕より年下みたいだね」

「………」

 ルエルは返事も反応もせずに流れゆく街並みに視線を移した。深夜ということもあって、ほとんどの家が明かりもなく、寝静まっている。

 車内に満ちる沈黙に耐えられなくなったのか、それとも罪人と密室に二人という状況が苦痛なのか、エドウィンは落ち着きなくラジオをつけた。しかし、あいにく時間が時間なだけに、流れてくるのは下世話な猥談ばかりである。

 ルエルが観察するようにエドウィンを見やると、顔を赤らめて慌てふためき、ラジオを消していた。普通は顔色など窺えない暗さなのだが、長い間明かりとは無縁だったせいか、夜目が効いてはっきりと見てしまった。

 それに毒気を抜かれたルエルは、エドウィンに気付かれないように声を殺して噴き出した。すっかり声が出ない役を演じるのが癖になっており、声を出したところで人を観察することに支障はないのだが、まだそのふりをして楽しみたい。

「ねえ、今笑った?」

 意外と目敏いという収穫を得た。

「笑ったのはこの口か?」

 素知らぬふりを決めていると、信号で停止した隙にエドウィンの手が顔に伸びてきた。恐らく頬をつまむつもりなのだろう。

 それをほんの思いつきで口をずらし、唇を押し当ててみたところ。

「………っ」

 まるで生娘のように飛びずさり、真っ赤な顔のまま車を急発進させた。

 無論、信号はまだ赤だった。

 胸の内で笑いを噛み殺しながら、エドウィンの純情っぷりに困惑する気持ちも生まれる。期待していたとも言える地獄のような日々どころか、日の下で真っ当な生活を送らされる自分を想像してしまった。

 今更、そんな日々を送りたいとは露ほども思わないというのに。

 

 

 到着と同時に真っ先に目についたのが、まるで記憶を再現したように聳える門扉。デザインまで酷似していた気がしたが、じっくり見る間もなく自動で開かれ、広々とした庭園に入り込んだ。

 巨大迷路のような遊び心を生かした道が続いたかと思えば、セキュリティも万全なゲートがいくつも重なった。迷路もそうだが、これでは侵入も脱走も容易ではないだろう。よもやルエルの存在を見越して作られたわけではないだろうが。

 そのセキュリティを解除する様子を眺めているうちに、屋敷の威風堂々たる姿が突如として現れた。一般人が立ち入れない禁則地のような場所にあるだけあって、それはルエルでさえ僅かに目を見張るほど巨大だった。一介の成金風情のローランド家など足元にも及ばないほどだ。

「お帰りなさいませ」

「カーライル、車を頼む」

 豪邸の中から出てきた黒服の男に対して、エドウィンが指示を出す。カーライルと呼ばれた男は、ルエルの屋敷にかつていた執事よりも遥かに若く、主人と年が大して変わらないように思えた。

 エドウィンとは対照的な冷たい印象を与える目が、さっとルエルの姿を眺めた。ルエルとは別の意味で表情に乏しく、冷淡な仕事人間という印象を与える。

「そちらの方は」

「カーライルの予想通りだ。あいつが勝手に仕組んだことだが、タイミング悪く僕の時にその役回りが回ってきたみたいだ。全く、あいつの考えることはよく分からないよ」

「では、事前にコレクターとの契約は済ませてあったと」

「うん。あの手の輩と関わるのは、あいつだけにしてほしいよ。僕は昼の人間だからね。たぶん奴も今回限りにするとは思うけど」

 隠語が多いだけに、暗号じみた会話になっている。あいつというのが誰のことか分からないが、その人物によりエドウィンは不本意ながらにルエルを買い取ることになったらしい。

 牢でルエルに目を止めた時の様子を思い出すと、とてもそんなふうには見えなかったのだが。

「では、その方は隠し通す方向ですか?」

「もちろん。あいつはどうするか目に見えているけどね。取りあえず、可愛そうだけれどルエルのことは屋敷に縛り付けるしかないだろうね。少なくとも」

 その後の呟きが、潜められていてうまく聞き取れなかった。興味を引かれる内容だが、恐らくルエルには説明してくれないだろう。まるきり外野の立場で傍観することに徹した。

 それから仕事仲間のようなやり取りをカーライルと交わした後、エドウィンはルエルを手招きして、玄関に案内した。

「屋敷にはカーライル以外にも執事がいるけど、僕は彼を一番信用しているんだ。仕事の面でもね。だから、僕がいない間に何かがあったらカーライルを頼るといい。それから、一つ約束してほしいんだ」

 目線で促すと、エドウィンはルエルの目をちらりとだけ見た後、他所へ視線を逸らして告げた。

「屋敷の中は自由に歩き回っていいが、外には絶対に出ないでほしい。なぜ僕がこう言うか、君はよく分かっているだろうけど、外は危険だからね。いいね?」

 返事は期待していないだろうが、ルエルは首肯し、ようやく反応らしい反応を示した。もっとも、エドウィンはルエルの方を見ていなかったので、それは意味をなさなかったのかもしれないが。

 「じっくり屋敷を案内したいけれど、今日はもう遅いから、取りあえず君の部屋だけ教えておくよ」

 そう言って連れていかれた先は、階段を何段も上った後、更にホテルのようにずらりと並んだ部屋の中でも最も奥に位置する場所だった。途中、屋上に通じると思われる階段も発見したが、星空を見て感動するような気持ちは持ち合わせていないので、今は特に興味もない。

 利用するとしたら、この屋敷から脱出する時くらいか。

「部屋の中の物は勝手に使っていいから。と言っても、特にないと思うけど。じゃあ、僕はこれで」

 まるで逃げるようにいそいそと出て行きかけるエドウィンに、まだ手錠を外してもらっていないことを伝えるべきか迷ったが、結局何も言わないことにした。別の意味で特殊な性癖は自覚しているのだが、別に縛られて喜んでいるわけではない。ただ、多少不便なくらいがちょうどよかった。

 エドウィンが出て行って静かになると、ドアを施錠し、部屋を見渡した。無駄に広く、手入れが行き届いていて、必要最低限なもの以外は何もない。

 天蓋付きベッドなど、反吐が出るほど寝心地が良さそうで、そこで寝る気にもならなかった。数年間の生活で染みついた習慣か、床の硬さの方がよほど体に馴染んだので、ドアに持たれて座り込み、そのまま瞼を閉じた。

 少しも眠気はなかったが、浅い眠りに落ちながら、眠っては起きてを繰り返しているうちに夜明けが訪れる。地下牢や刑務所の方がよほど記憶にこびりついているというのに、平穏で退屈な幼少期の夢ばかりを見た。そこで、見知らぬ少年が出てきて、ルエルに笑いかけてきた。

 そんな友人がいた覚えはない。どこかエドウィンに似ていると思った時、ドアをノックする音で目が覚めた。

「カーライルです。ドアを開けてください」

 立ち上がり、素早く開錠すると、カーライルは失礼と断わって部屋に入って来た。何をするかと思えば、部屋を見渡してベッドやバスルームを点検し、使用された形跡がないことに気が付いたのか、眉間にしわを寄せて溜息をついた。

「ベッドがお気に召さないのならそれで構いません。ですが、せめてシャワーを……」

 そこでルエルの手首にはまった物に目が留まり、考える素振りをして部屋を出て行った。手錠は敢えて外してもらわなかったのだが、それをわざわざ伝えるつもりもない。まだ口を利かないで様子を伺いたかった。

 しばらく手持ち無沙汰に部屋をうろついていると、足音荒く誰かが廊下を歩いて来た。

「何で言ってくれなかったんだ」

 ドアを開け放って早々、飛び込んできたエドウィンに怒鳴られる。何のことかと一瞬呆気にとられていると、エドウィンは軽くウェーブした見事な金髪の毛先を弄りながら咳払いした。

「いや、すまない。君は責められることはしていない。僕が気付かなかったのが悪いんだ。さあ、手を出して」

 ここで嫌がるのもおかしいかと思い、素直に差し出していると、エドウィンが手錠を外している傍ら、カーライルが仏頂面で頭を押さえていた。

 手首に残った痣はここ数年の生活でできたもので、決してエドウィンが手錠を外し忘れていたせいではないのだが、痛々しいものを見るような、申し訳なさそうな目をしていたことを思い出す。

 突然解放された両手は羽が付いたように軽い。カーライルに促されるままにシャワーを浴び始めたのだが、握力が戻っていないのか、蛇口でさえうまく回せずに立ち往生した。

 四苦八苦しながらなんとか汚れを洗い落とし、バスルームを出ると、やたらと上等な衣服が置かれていた。間に合わせのものらしく、サイズが合っていない。これはエドウィン用の服ではないかと疑いながら着ると、眠気を誘うような高級感漂う仄かな香りがした。

それがエドウィンと同じ匂いだと思った瞬間、咄嗟に脱いだ。

「着替えた?サイズ確かめたいってカーライルが……」

 ノックと同時にそんなことを言いながら、エドウィンが脱衣所を覗いてきて、ぱちりと眼が合う。

「………」

「………」

 そして見つめ合うこと数秒、エドウィンはみるみるうちに赤面していき、脱衣所の扉を壊さん限りの勢いで閉めた。

 同じ男の体だろうにと呆れながら自分の体を見下ろすと、股間に何も身に着けていないことに気が付いた。

それにしても生娘ではあるまいしと、何度目かの同じ感想を抱いて着替えた。

 ようやくまともな格好をして脱衣所を出ると、顔を覆って呻いているエドウィンと、その横で何とも言えない顔をして立っているカーライルがいた。

「エドウィン様」

「何」

「エドウィン様」

「だからなに。僕は今、クールダウン中なんだって言って……」

 顔を上げたエドウィンが、カーライルの向こうに立つルエルに気が付いた。そしてぽかんと口を開けた間抜け面を晒して、そのまま先ほどのリプレイのように数秒固まった。

「ルエル様、サイズはど……」

 エドウィンを置いてカーライルが近づいて来た時だった。それを押しのけるようにして、エドウィンがルエルの目の前に立ち、言い放った。

「サイズなんてどうでもいい!絶対これだ!いっそ僕のおさがりを全部……」

 最後まで言い終える前に、カーライルが大きく咳払いをして遮った。よく分からないが、何かエドウィンのスイッチが入ってしまったらしい。それも危険な類の。

「エドウィン様、この件に関しては私にお任せください」

「えっ、いやいや、ここは僕が……」

「エドウィン様」

 カーライルが鋭い眼光をエドウィンに向け、きつく言い聞かせると、弱々しくはいと返事をして引き下がった。

「ルエル様、ちょっと採寸するので失礼します」

 カーライルに大人しく計らせていると、エドウィンはうろうろと落ち着きなく部屋を行き来して言った。

「何もないな。この部屋。ルエル、欲しいものがあれば遠慮せず言ってね」

 実際何も思い付かないのもあり、無言を貫いていると、エドウィンはそうだと手を打ってカーライルに言った。

「あれはもう準備してある?」

「はい。ですから先ほどお渡ししましたよ。ルエル様、採寸終わりましたのでもう動いて大丈夫です」

 カーライルがルエルから離れると、エドウィンはテーブルに置かれた箱を持ち上げた。

「ルエル、これを君に。屋敷に籠っていれば不要かもしれないけど」

 箱を開けると、血のように赤い携帯電話が入っていた。普通は男にこんな色をと思うところだろうが、ルエルの目の色を意識されたようなそれを一目で気に入った。

 しかしルエルの表情から何も読み取れなかったのか、エドウィンは慌てたようにもう一つの箱を取り出した。

「やっぱり赤い携帯は女みたいで嫌だよね。黒いやつも用意しているから、好きな方を」

 エドウィンが赤い方を仕舞おうとしたので、ルエルはひったくるようにそれを奪い取った。自分でもその行動に驚いたのだが、エドウィンやカーライルでさえも目を見張った。

 取り繕うように咳払いをするべきかと思っていると、エドウィンが満面の笑みを浮かべてルエルの頭に手を乗せた。そのまま子どもにするように頭を撫でたかと思うと、はっと我に返った様子でわざとらしく時計を見て、慌てた声を出した。

「しまった。早く朝食を食べないと間に合わないよね」

「いえ、今日の予定は昼からで……」

「間に合わないんだよね、カーライル」

 無言の圧力を受けた執事は察した様子で頷き、ルエルとエドウィンをダイニングルームへ案内するべく先導して歩き出した。

 その際、携帯電話を取り出してアドレス帳を見ると、すでにエドウィンとカーライルの登録が済ませてあった。使用する機会が訪れるかどうかはともかく、この色を選んだエドウィンのセンスは素直に称賛した。心の中で、ひっそりと。

 

 朝食を終えると、エドウィンは溜まった仕事を思い出したと言って部屋に引き上げていった。

 屋敷の案内はカーライルに任せていたようで、ルエルが席を立つ頃合いを見計らって声を掛けられる。その後について屋敷を回っていくと、どうやらエドウィンは芸術に関心があるようで、あらゆる楽器を並べられた部屋や、巨大なキャンバスをいくつも置かれた部屋があった。

 多種多様な絵がある中でも目に付いたのが、美しい景色でもなく、肖像画でもなく、暗闇で一人の男がもがき苦しみ、自分の背中にある漆黒の翼をへし折ろうとしている絵だった。これは悪魔を描いているのだろうと思うが、それにしては姿かたちはただの人間のように見える。

 男は絵の中で生きていて、今にも飛び出してきて心臓を狙ってくるのではないか。そんな空想が浮かんで、知らぬ間に冷や汗を浮かべていた。

「その絵は、あるお方が描いたものです」

 隣に立って同じように絵を見ていたカーライルが言った。説明を求めて顔を見るが、それが誰のことかは言うつもりがないようだ。

 ただ、部屋を出る時にぽつりと、

「悪魔というのは、最も悲しい人間の姿なのかもしれませんね」

 という、謎めいた言葉だけを残して。

 

 

 

安穏とした暮らし