安穏とした暮らし

                   

 屋敷に来て10日ほどが過ぎた。まるでルエルの犯した罪など夢の出来事であったように、驚くほど平和に、緩やかに時間が流れた。

 しかし平和であればあるほど、ぬるま湯に浸かったようなこの生活にいればいるほど、忌々しい記憶ばかりが蘇る。

 決められたレールの上を歩かされることは、まだ良かったのだろう。真面目な好青年ともてはやされることも気分は良くなかったが、我慢できないわけではなかった。

 自分の中の凶暴な存在が怒り狂ったのは、何が原因だったのか、考えても答えは出ない。むしろ答えなど存在しないのかもしれない。殺人を犯したことに対する罪の意識というものもまるでなかった。

 あの悪魔の絵を思い出し、自分ならば血だらけになりながら笑っている天使でも描いたかもしれないなと思った。

「あれ、ルエル様、何かお探しで?」

 屋敷中を回り、あるものを探していると、カーライルがすかさず訊いてきた。最初に他にも執事がいると聞いていたが、滅多に遭遇しない。エドウィンがカーライルに世話を頼んでいるのだろうが、この執事は優秀過ぎて未だに言葉を発しなくても何でも察してくれる。

 ルエルが身振りで何かを描く動作をすると、すぐに紙とペンを用意してくれた。この執事は、ルエルが本当は口が利けることを知っていてこの茶番に付き合っているのかもしれない。ふとそのことに気が付いて、ではエドウィンはどうなのかと考えかけて、あの男は気付いていないだろうなと思った。

カーライルが立ち去ってすぐに部屋に籠り、頭の中に浮かんだイメージをそのまま描き始めた。絵画の心得はまるでないが、山のような習い事をさせられた時、その一つとして絵画の勉強も強いられたことがある。あの時はこれが何の役に立つのかと苛立ちながらも、真面目に学んでいるふりをして、なんとも堅苦しい絵ばかりを仕上げたものだった。

 人物画は得意な方ではないのだが、色をつけなくていいだけ楽かもしれない。そう決め込んで描き始めてから小一時間。予想以上に熱中していたらしく、同じ体勢でいたせいかあちこちが悲鳴を上げた。

 完成した絵を眺めて、まずまずの出来映えだと一人納得していると、ドアがノックされた。

「ルエル。ちょっといいかな?」

 勝手に入ってくれればいいのに、何を遠慮しているのかなかなか入ってこなかった。不思議に思いつつ扉を開くと、まず見えたのは本の山だった。どうやらエドウィンが抱えきれないほどの本を持っていたせいで開けられなかったらしい。

「ごめん、テーブルに乗せるから、手伝ってくれない?」

 言われるままに本を半分ほど取り除くと、たった今絵を描いていたガラステーブルの上に積み重ねていく。エドウィンも本を重ねていたのだが、その際、絵が見えたらしく、積み終えた後に紙を拾い上げた。

「これは………」

 エドウィンはその絵を食い入るように見つめて、言葉を失くしているようだった。ちょうどルエルがあの絵を見た時と同じ顔をしている気がした。

ルエルが描いた絵というのは、あの絵と対になるような天使の絵だ。ただし、一般的に描かれる神々しいものでは到底ない。一見、とても美しく微笑んでいるのだが、その足元にはいくつもの骸が転がり、それを踏みしめている。さらに天使は一人の人間の胸をナイフで突き刺していて、返り血に喜んでいるようにも見える。

 実に狂気に満ちており、天使への冒涜だと思われてもいいものだが、これはルエルの頭の中にあるイメージ、つまるところ昔のルエルそのものだった。今を描くとしたら天使などではなく、まるきり悪魔そのものが哄笑している様を絵にするだろうが、それではインパクトもない。

 そして、悪魔が悪魔であることを嘆くようなあの絵とは対照的で、天使であることに違和感を覚えるどころか、天使である自分の姿さえ利用して悪に手を染めているというものも現した。これは昔のルエルでありながら、理想の姿でもある。

 なぜなら、ルエルは天使であることに疑問を感じたために、犯罪に手を染めることになったのだから。

 それらを言葉で説明してもいいのだろうが、絵を真剣に見つめているエドウィンの様子を見て、つまらないことを言うのは無粋だと判断した。

 息を詰めていたのか、しばらくして絵から顔を上げたエドウィンは、大きく息を吸って吐き出した。そして、驚くことに、その眦から一筋の涙を溢した。

「あれ、僕なんで泣いて……」

 自分でも涙の理由が分からなかったのか、エドウィンは戸惑ったようにそっと拭った。

 そんな感動を呼ぶような代物ではなかったはずだと、もう一度ルエルも描いた絵を眺めようとすると、突然横から手が伸びてきて、力強く両手を握られる。

「これ、もっと大きな絵にしてみない?そして、僕の絵の隣に並べよう」

 勢いよくそう告げると、本来の目的も忘れたのか、大量の本を置き去りにして慌ただしく部屋を飛び出して行った。

 取り残されたルエルは、もう一度絵を見ようとし、それがエドウィンに持ち出されたのか、見当たらないことに気が付いた。そして、仕方なく本に目を向ける。

 本など勉強のために読まされたくらいで、好きでも何でもないのだが、ざっと見た限り、まるで統一性がない。幼児が読むような絵本から、経済の専門書があるかと思えば、小説や美術書まで幅広くある。

 そして楽譜まであったので取り出して見ようとしていたところ、ふと一冊だけまるで違うものが混ざっているのに目を止めた。

 それは、雑誌だった。それも、肌色が多い類いのあれで、お姉さんが縛り付けられて喜んでいる写真が表紙だ。これがエドウィンの趣味かと思いながら中を開いてみると、あるページがよく見られているのか開きやすくなっていた。

 そこには、燃えるような紅い瞳の女が、挑むような目付きでこちらを誘惑している写真があった。どことなく誰かに似ているような。

 その時、出ていった時と同様に騒々しくエドウィンが戻ってきた。

「ごめん、お待たせ……って」

 雑誌から顔を上げると、著しく顔色が青から赤、そしてまた青へと変化させたエドウィンが、発狂した。そして瞬く間にルエルの手から取り上げると、自分の後ろに隠してしまう。

「見た?見たの?見てないよね、ね?」

 見ていても見ていないと言わされそうだったので、敢えてさっきの写真を意識してじっと見つめ、口角を引き上げてみせる。

 するとエドウィンは分かりやすく顔を赤らめて、雑誌で顔を隠しつつ、

「何だろう。初笑顔いただいたのに、素直に喜べない」

 もごもごとぼやいた。

  それから気を取り直したエドウィンが、ルエルを手招きして連れて行ったのは屋敷を案内してもらった時には何もなかった部屋だった。数多くある部屋の一つ一つを大方一度で覚えてしまったのだが、どうやらたった今ルエルのために画材セットを移動させたらしい。

「アトリエと呼ぶにはまだ道具が足りないんだけど、君専用の絵を描く部屋を作ってみたんだ。良かったら好きに使ってほしい。足りないものがあったら教えて。僕かカーライルに補充させるから」

 いつの間にかルエルが絵を描くことが決定事項になっている気がしたが、大して抵抗も感じなかったので、大きなキャンバスが貼られたイーゼルの前に腰掛けた。色をのせて描くことはあまり得意ではないのだが、そこも我流でなんとかなるだろう。

 早速絵を描き始めると、しばらくエドウィンの視線を感じていたが、やがて絵に没頭し始めて気にならなくなった。

 黄昏時になるまで空腹も忘れてやっていたのだが、一段落して顔を上げると、食欲をそそる匂いが漂ってきて振り返る。エドウィンが食事を乗せた盆を抱えて部屋に入ってくるところだった。

「ごめん。邪魔したかな?わざわざダイニングルームに移動したくないと思って持ってきたんだけど」

 ルエルはそれに返事をする代わりに、食器に手を伸ばそうとして自分の手が汚れていることに気が付いた。

「あ、手を洗う?部屋の隅に洗面台あるから行っておいで」

 言われるままに手を洗い、戻ってくると、どこから出したのか折りたたみ式のテーブルをセットしたエドウィンが、その上に盆を乗せていた。

 早速食事に手を付けると、見た目はいつも通りの高級料理風なのだが、微妙に味が違う気がした。不味いわけではないのだが、素朴で温かく心の琴線を刺激するような懐かしい味だ。こんな味は知らないというのに、懐かしいと感じることを不思議に思う。

「どうしたの?不味かったかな」

 思わず手を止めてしまうと、エドウィンが不安そうな顔をした。その顔を見て、これを作ったのが誰かを知る。

 生温く苛立ちを募らせるばかりの平穏な生活だが、ほんの少し気が変わったのを感じて、その料理を掻き込んだ。

 

 

 

相反する感情