相反する感情

                          

 深夜、ルエルは喉の渇きを覚えて蛇口から水を飲んだ。もうひと眠りしようとした時、エンジン音が聞こえて窓を見る。

 こんな時間に来客か、それとも誰かが外出するのかと思って見下ろすと、見覚えのある車が屋敷から出て行くところだった。特に不自然なところはない。しかし、思い返してみればエドウィンは度々こうして夜中に出掛けているようだ。

 なんとなく気になって後を付けてみたくなったが、行き先も知らずに車の後を追いかけるのは至難の業だ。そこで他のエドウィンが所有する車を無断で拝借することにした。無論、免許はないので精々捕まれないように注意を払う。

 ゲートを出る時、厳重な警備を敷かれているはずの門が易々と開いた。それに疑問を覚えたが、今はエドウィンを追いかけることに徹する。尾行は見抜かれないようにする必要があるが、なにぶんうまい運転などできないので、ひとまずある程度距離を置いてついていった。

 エドウィンの車が止まったのは、夜中に営業しているカジノの前だった。うまく本人のイメージと結びつかないが、それはひとまず横に置いておく。

 さすがに中まで追いかけるには身分証でもいるだろうと思って路肩に止めると、エドウィンはカジノの中に入って行ったが数分とせずに出てきた。そして一人の男を連れている。仕事仲間だろうか。

 そのまま車に戻るのかと思ったが、エドウィンは男を連れて路地裏に入って行った。無断駐車かもしれないということは考えないようにして、車から降りて後をつける。

 何かを殴りつけるような音がした。繰り返し、繰り返し、断続的に。嫌な予感がして暗がりに目を凝らすと、想像していたのとは違う光景だった。

「すみません、すみません。お許しを」

 血だらけになりながら情けを乞うているのは、エドウィンではない。連れられていた男の方だった。その男を蹴りつけているのは。

「エドウィン……」

 思わず久方ぶりに声を漏らした。長い間口を利けないふりをしていたせいなのか、それとも信じられない光景に絶句したせいなのか、みっともなくも声が掠れる。

 小さな声だったのだが、エドウィンはその音を耳聡く拾い上げたらしく、顔を上げる。ルエルの姿を認めると、まるで別人のように瞳孔を開かせて荒く息をつき、歪んだ笑みを浮かべた。

「あっれえ?ルエル坊ちゃんじゃないの。人形のふりはやめたのかい?」

 靴底ですっかり伸びている男を踏みつけながら、にたにたと嫌な笑いを浮かべて近づいて来た。

「お前こそ、善人のふりはやめたのか」

「善人?やだなあ。どっちも俺だよ。あいつには今眠ってもらっているんだ昼はあいつの領域だが、夜中は俺の領域だからな」

「おかしなことを言うんだな」

 自分のことなのに、まるでもう一人別の人間の話をしているような。そこまで思って、ある可能性に行きついた。

「まさか、お前……っ、んむ」

 突然、言いかけた言葉を塞がれた。エドウィンの冷たい唇を押し付けられて、目を剥いていると、そのまま舌先が捻じ込まれてくる。身を引こうとしたが、ブロック塀に追いやられた。

「あれ?意外と大人しいね、ルエルちゃん。てっきりあんたのことだから、俺の舌を噛みちぎってでも逃げると思ったんだが」

「たかがキス一つで調子に乗るなよ。そんなにばらされたくない秘密だというのなら、俺の弱味でも握って脅してみろ」

 口を拭いもせずに睨みつけながら笑うと、向こうも同じように笑いながら言った。

「弱味?嫌だなあ。あんたを貶める行為はいくらでも思い付くんだけど、そのお楽しみはあいつの方がしたがっているからなあ。どうせなら俺らしいやり方をしないとね。よし、決めた」

 エドウィンは不意に顔を離したかと思うと、無遠慮にルエルの体を撫で回しながら、絡み付くような声で言った。

「秘密がばれてしまったからには、あんたにも仕事を手伝ってもらうぜ。もしうっかり他所の人間にばらした時には、あのまま死刑された方が良かったと思わせてやる」

 普通は、ここでは自分が言うことを聞かせるところじゃないのかと思いながらも、ぞくぞくするような刺激的な予感に興奮を覚えた。

 

 翌朝、いつもより遅い時間に目を覚ますと、エドウィンは庭で絵を描いていた。景色でも描いているのかと思って覗き込むと、涙を流して天に祈っている悪魔の絵だった。許しを乞うているようにも見えて、どこから見ても悪魔であるのに、天使よりも清く美しいと思えた。

「あ、ルエル。起きていたんだ。おはよう。おそようかな?」

 物音に気が付いたのか、キャンバスから顔を上げてエドウィンが挨拶をしてきた。その顔には、昨晩のような面影はない。

試しにぐっと顔を近づけてみると、瞬時に顔を赤らめて慌て出した。

「え、な、何?どうしたの?」

 今のエドウィンに何をしたところで、何の意趣返しにもならないのだが、悪戯心が湧いてきて、そのまま口付けてみた。

「なっ……」

 唇を離すと、目を見開いたまま固まっていた。顔は信号機やポストのように赤いままだ。

「ごちそうさま」

 耳元で囁くと、それで我に返ったのか、えっとか嘘、とか呟いていた。

 驚いていた様子を見るに、予想通り昨晩の記憶は今のエドウィンにはないのだろう。しかし恐らく、あのエドウィンは全て記憶しているに違いない。

 多重人格というのは本で読んだことがあるが、実物を見るのは初めてだ。一般的な知識だと、多くは心因性のものだと聞くが、一体このエドウィンにあの人格が生まれるほどの何があったのだろう。

しかしそれを心配するよりも、不謹慎だと思われるだろうが、正直面白がる気持ちが強い。所詮、人は自分の身に降りかからない限り、どんな悲劇も他人事なのだ。

「ルエル、今のは一体どういうつもりで……」

 ようやく放心状態から脱したのか、エドウィンが詰め寄ってくる。その瞳は熱っぽく潤んでいた。

 まずい、と本能的に悟った時には既に遅かった。エドウィンは飛び掛からんばかりの勢いでルエルの体に抱きつこうとし、反射的にそれを避けようとしたところ、何かに躓いて後方に倒れてしまう。

「危ないっ」

 エドウィンが叫び、腕を引っ張ってくれたようだが、今度はそのままの勢いで前方に倒れ込んだ。

 その衝撃で一瞬閉じた目を開くと、エドウィンを押し倒したような体勢で上から見下ろしていた。

「いたた……。ルエル、大丈夫?」

 自分の方がよほど痛い思いをしているだろうに、ルエルの方を心配している。

 そのことに何故だか胸に痛みを覚えて、戸惑う。

「どうして」

「え?」

「どうしてお前は」

 理由の分からない感情に戸惑うほどに、ふっと暴力的な衝動も込み上げる。

 この男は自分の本当の姿を知らない。だったら、痛め付けて、分からせてやりたい。

 そして懐しささえ感じるその感覚のままに、拳を振り上げかけて、寸前でエドウィンの額からたらりと伝った赤い血筋を見て止まった。

「ルエル?」

 ルエルが何をしようとしていたか全く分からないでもないはずだが、変わらず不思議そうに、そして深い情を宿して名前を呼んでくる。

 負の感情が途端に鎮まり、反対に何かの感情が沸き起こるのを抑え込むようにして、血が出てると伝えた。

 

 

 

倒錯する世界