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  暗闇の中、男がぶつぶつと何事かを延々と呟き続けている。こちらから話しかけても何も反応を返さない。

 男の様子がただ事ではなく、気味が悪いのは言うまでもないが、早く男に気が付いてもらわなければならないという訳の分からない焦燥に押し潰されそうになる。

「おい、ーー、早くしないと奴が来てしまう」

 自分が必死に捲し立てる内容も分からず、また男の名を確かに呼んだのだが、肝心の名前の部分が不鮮明で聞き取れない。

 幾度も繰り返す自分の声が枯れ始めた時、ふいに背後から光が差して辺りの様子が明らかになる。男の正体が判明すると同時に、あっと声を上げる間もなく、後ろから飛び込んできた何者かが自分を押し退け、男に襲い掛かり。

「やめてくれ!」

 絶叫した途端、息を乱しながらレイドールは飛び起きた。今度は夢の内容を覚えていたが、肝心の男の正体が霞のように記憶から消えていった。

 一方で、後ろから男に向かって行った何者かは、どこかで見たような顔をしていたような気がした。特徴的だったのは、顔の半分をピエロのようなマスクで覆っていたことだ。

 記憶を手繰り寄せながら、何気なく隣を見ると、いつもべったり張り付くように寝ているマンホークがいない。辺りを見回していると、廊下から微かな灯りが漏れていることに気が付いた。そして、ぼそぼそとした話し声らしき音も聞こえてくる。マンホークが誰かと通話でもしているのだろう。

 あんな夢を見た原因を早くも見つけながら、半開きになった扉を閉めて寝直すことに決め、廊下に近付いていく。それにしても、こんな夜中に話すほど親しい人物がいたのかと、明日になればからかってやろうかと思いかけた時だった。

「こんなに烏を寄越したところで、帰るつもりは毛頭ありません。入れ込んでいる?どうとでも言ってください。では、失礼します」

 マンホークの口から出た意外な丁寧語とともに、黒い何かが横切り、羽ばたいていく音がした。間違いなく、あの時見た烏だ。それを窓の外に放ったマンホークがこちらに気が付く前に、音を立てないように素早くベッドへ戻る。

 烏と、それを差し向けたというマンホークの知り合いというのは想像もつかないが、何やら胸騒ぎがした。跳ね上がる鼓動を鎮められないまま、しばらくしてマンホークが隣に戻ってきてもどう尋ねようかと躊躇ううちに、聞こえてきた寝息に誘われて目蓋が落ちてくる。

 明日、必ず問い詰めるんだと心に決めながら、眠りに就いた。

 

 しかし、翌日そのことを尋ねても、マンホークはろくな返答も返さず、例のごとく「まだその時期ではない」と意味深な台詞を残すばかりだった。

 食い下がって問い詰めようとしたのだが、ちょうど新しい仕事が舞い込んで中断せざるを得なくなる。それは珍しく殺しの依頼ではなく、薬や銃といった違法の物資を届けてほしいという内容だったのだが、念のため身元確認のため依頼者を調べたところ、マンホークのことが頭から吹き飛んだ。

「Z……」

 それは裏社会にはありがちのコードネームだが、問題はその人物の顔写真にあった。画面越しに睨みつけてくる極悪非道そのものといったその男は、顔半分を奇妙な仮面で覆っている。そのせいか、恐ろしい反面滑稽な印象を同時に与え、却って薄ら寒くなった。

 そして、その強烈なインパクトを与える仮面は、間違いなく夢で見た男が嵌めていたのと同じピエロの面だ。

「この男は……」

 男のデータを眺めながら、少なくとも同業者だということは分かるのだが、会ったことがあるかと自問してみても浮かんでくる記憶はない。だが、記憶はないと断じながらも、微かに靄がかかったように奥底から何かが浮かんできかけた。

僅かに頭痛を覚えて額に手を当てていると、それに気が付いたのか、マンホークが後ろからパソコンの画面を覗き込んできた。

「ああ、そいつは……」

 どこか知った風な口調で、何かを言いかけてやめたマンホークを振り返る。

「お前、知っているんだろう」

「……それはな。同業者だから多少は」

 嘘だ、とマンホークの無感動とも言える瞳を見ながら思う。彼は、動揺した時に却って表情が無くなる癖に自分で気付いていないらしかった。

「俺、この人に会ってみたい」

 問い詰めても無駄だと知っていたため、代わりにそんなことを言っていた。しかし、案の定マンホークは硬い声を出した。

「それは駄目だ」

「なんでだ。お前が何も言うつもりがないなら、調べるしかないだろ」

 苛立ちを露にしながらマンホークを睨むと、彼は大きく溜息を吐きながら。

「理由は簡単だ。その男は、お前も知るエドウィン・ジョーカーとは別の意味で要注意人物だからだ」

「要注意?具体的に言え」

「あらゆる暗殺者が差し向けられても、軍隊が襲い掛かってこようとも、奴は絶対に死なない。驚異的な身体能力で、たった一人で必ず返り討ちにしてきた。エドウィン・ジョーカーが狙った獲物を百発百中で仕留めてきたと言われているが、実は一人だけどうしても粛清できない相手がいる。それが奴だ」

 一度だけだが、エドウィン・ジョーカーとやり合ったことのあるレイドールは、あの男の強さを知っている。彼が自分と互角だとすれば、Zという男はそれを悠に超えている化け物だということになる。本能的に、恐怖よりも鳥肌が立つほど血が騒ぎかけたが、辛うじてそれを抑え込んだ。

「俺は別に奴とやり合うわけではない」

「血の気が多いお前が行って、向こうが大人しく話に乗じると思うのか?」

「それは分からない。だけど会ってみたい」

「俺は反対だ。絶対に行かせられない」

 幾度か押し問答を続けながら、内心で会わないといけない気がするんだと呟いていた。そして、マンホークの頑なな様子を見て、単に危険だという以上に別の理由が絡んでいるに違いないと感じた。

 その時、マンホークとの問答に夢中になっていたせいか警戒が疎かになっていたために、窓の外から住居を双眼鏡で見ている男たちの存在にレイドールは気が付かなかった。

 そして、ようやく何かを感じた気がして窓の外を睨んだ時には、男たちは車で走り去っていた後だった。