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 風の強い晩だった。私はただっ広い部屋で一人、映画を眺めている。ふいに思い付いて無音にしてみたところ、見慣れた映像もまた違ったもののように思えてくる。
 自分好みの台詞を勝手に考えて楽しみながら、私は映画に登場する無名の男優が藍沢に似ていることに気が付いた。
 声がないことで、余計に藍沢がスクリーンに映っているような気がしてくる。モデル顔負けのすらりとした体躯に、鋭く野性味溢れた目付き。そして芋づる式に甦るのは、女に刃物を向けられた時の表情と、その後自殺しかけて倒れた女のことだ。
 映像の向こうに藍沢がいて、私に語りかけてくる。
「スマホ貸して」
 連絡先を口頭で伝えるのが面倒だったのか、藍沢はいきなりそう言うと、私のスマホを勝手に使って素早く登録を済ませてしまった。その手慣れた一連の動作に無駄がなく、むしろ無駄がなさすぎて私は思わずこぼした。
「慣れてますね」
「まあな。見た目通り場数は踏んでますから」
 自分で言うのかという突込みはあえてしなかった。藍沢が無駄に整った容姿をしていることは明らかで、恐らく私が関係を持ったどの男よりも見た目だけなら最上だと分かっている。
 そのまま互いに砕けた口調になり、二言、三言言葉を交わして席を立った。私たちは数時間前に起こったことを敢えて話題に上らせることもなく、まるで友人同士のような雰囲気で別れた。
 藍沢が自殺未遂した石井という女とどういう関係を築いてきたのか、興味がないと言えば嘘になる。しかし、それよりも藍沢が映画やドラマのようにそれらのことを他人事として受け止めているようなのが気になった。
 しかし、私はいつものようにすぐに体の関係を持つことはなかった。それどころか、何かが躊躇わせていて、結局あれから数週間が経った今も連絡が取れずじまいだ。
 一方で藍沢も、私の連絡先をちゃっかり登録していたはずだが、あれだけ誘いかけておきながら全く音沙汰がなかった。もしかしたら石井とのことで何かがあったのかもしれないと思いつつ、あの男がそこらの女に妨害されたくらいで浮気やら何やらをやめるとも思えない。そもそも、私たちはまだそういう関係でもなく、藍沢はともかく私は恋愛など興味がないのだけれども。
 そうしてスマホの画面をタップして、藍沢の連絡先を覚えるほど眺めるだけ眺めて、結局何も行動を起こさずにいる。未遂とはいえ自殺の現場を見てしまったせいかは分からないが、どうにもいつものようにいかなかった。
 その間に映画が終盤を迎え、私はリモコンを操作してスクリーンを仕舞い、照明をつけた。シャワーでも浴びてこようと立ち上がりかけた時、スマホが着信音を響かせる。もう一度ソファに腰掛けてスマホを操作すると、画面に表示されていた名前は藍沢などではなく、関係を持つ男の一人だった。
 香椎というその男は、私より六つ年上の三十歳で、落ち着いた大人である。もっとも、私が年下だから年上としてのプライドがあるのかもしれないが、穏やかな好青年といっていい香椎がなぜ未だに決まった相手をつくらないのかは謎だ。
 私は香椎からの着信を取るか取らないかを考え、取らないことに決めた。もとより電話が得意な方ではなく、それを知っているのにかけてくる方が悪い。用件はメールで済む上に、こうして距離を詰めようとする行為は苦手だ。
 着信が鳴り止んだ瞬間に、私は素早くスマホを操作して香椎に一言文句を送った。
「電話かけてこないで。次にかけたら切るから」
 すると、即座に返信が届いた。
「ごめん。ついうっかりしてた。次はいつ会える?」
 ここで香椎が「声が聞きたくて」など言ってきたら問答無用で切っていたが、その辺りの引き際はわきまえているらしい。
 私は「土曜日の夜なら空いている」と送り、香椎が「了解。いつものホテルで」と送ってきたのを最後に、スマホをソファに放り出す。今度こそシャワーを浴びに行こうと歩きながら、藍沢に連絡するのはこのままないかもしれないなと思った。
 

 


 土曜日、私は香椎と付かず離れずの距離感でホテルに入りかけた時、見覚えのある人物とすれ違った気がして振り向いた。
 その男は、モデルのようにスタイルがよく、後ろから見ても大半の女が放っておかないオーラがある。そして、その隣には彼と並んでも見劣りしない美女がいて、腕を組んでいた。
 見間違いではないかもしれないが、向こうは気が付いていないようだ。それにしても、また新しい女を連れ歩いているとは、道理で連絡がないわけだ。
 私はショックを受けることもなく、呆れるでもなく、単にあの男の切り替えの早さに納得した。私も恋愛ごとで二度とあのような目に遭いたくないために、むしろ男は賞賛に値すると思えた。
「どうしたの?知り合いでもいた?」
 私が立ち止まっているのを不思議に思ったのか、香椎が声をかけてくる。凝視していたのがモデル並みの上等な男だと気付いたのかどうか。香椎は少し困ったように苦笑いしている。
「ううん、人違いみたい。行こう」
 首を降り、香椎と共にホテルに入る。チェックインし、香椎に抱かれながら、藍沢はこの近辺に住んでいるのだろうかとぼんやりと考える。いつもの吐き気も和らいだまま、数時間後にはチェックアウトして香椎と別れた。
 

 

 

 

藍沢のことはそれ以降考えていなかったのだが、翌朝、当の本人から初めてメールが届いた。夜景を切り取ったような写真と、「この景色が見えるレストランで」という一言だけだった。
 私は送り先を間違えたに違いないと思いながら、ストレートにそれを指摘すると、案の定藍沢は「すまん」と送ってきた。
 デートに誘う相手を間違えるなんてと呆れ、そのまま会話が途切れたのだが、数分後、思わぬ台詞が送られる。
「せっかくだし、時宮さんでいいや。このレストランで今晩、食事でもどう?」
 そして添付ファイルを開くと、ご丁寧にもレストランの写真と地図が出てきた。私は最後に誰かとデートをしたのはいつだっただろうと思い返しながら、特に深く考えずに了承の返信をしていた。
 服装を考える時、私はほんの悪戯心で、下品になりすぎない程度に体の線が分かりやすい服を選んだ。自分の体型に自信があるわけではないが、体目当ての男ならば容易に引っ掛かってくれる。藍沢も少なくともその気があるだろうし、流れとはいえ段階を踏もうとする方が不自然な気がしていた。
 そして約束の時間、指定された店に向かう途中のことだった。気紛れに降り出した雨のおかげで、余計に体の線が協調されてしまったのは計算外だったが、今更引き返せない。念のため用意していた羽織ものを着て、辛うじて見知らぬ男を煽る痴態は免れた。あとはタイミングを見て藍沢の前で脱ぐかどうかだ。
 頭の中で計算しながら、常にない高揚を覚えていると、目的の店の前に来た。入る寸前、狙ったようなタイミングで肩を叩かれる。
 振り向くと、芸能人のようにサングラスで顔を隠した男が、人の悪そうな笑みを浮かべていた。服装も雑誌に出そうな一流ブランドを取り入れながら、適度に遊ばせているのを見て、なんだか負けた気がした。
「3週間ぶりだっけ。さ、話は中に入ってからしよう」
 背中を柔らかく押されて、まるでエスコートするように自然な動作で店内に入れられる。もっと適当な印象だったために、藍沢という男が分からなくなった。
 誘導されるがまま席に着くと、ようやく藍沢はサングラスを外す。その勿体ぶったようなゆったりとした動作は、他の人間がやればわざとらしく見えただろうが、藍沢がやると意味が違った。
 サングラスの下にある顔が期待を裏切らないと知っているせいか、早く見たいと思わせられるのだ。相変わらずこちらの動揺を誘うような真っ直ぐな瞳が現れる。私も負けじと挑むように見ていると、藍沢が口元だけでふっと笑った。
「何?」
「いいや、その格好はわざとかと思って」
 小馬鹿にしたように笑われて、私は自分の服装を見下ろす。確かに濡れたせいで、自分でもやや狙いすぎたかなと感じた。しかし今隠すと尚更笑われそうな気がしたので、開き直って堂々と見せつけてやることにした。
 すると藍沢は笑いを引っ込めて、まるでそっちがその気ならと言わんばかりに、ためらいもなくボディラインを眺めてくる。よほどお気に召したのか、藍沢の視線はバストにくぎ付けになった。自慢かもしれないが、バストは人並み以上の自信があるので、少し得意になった。
 そうしていつまでも続くかに思われた公衆の面前での羞恥プレイもどきは、店員が注文を聞きに訪れたのを境に、一時休戦に向かった。その際、店員は男性だったのだが、藍沢とは違って初心な反応を示し、私の方を意図的に見ないようにしていて笑えた。
 店員がいなくなると、藍沢は視線をまた私の体に向けるかと思いきや、以前のように穴が開くほど顔を凝視してきた。ふと思いついて、藍沢にこう尋ねる。
「もしかして藍沢さん、目が悪いの?」
「いや、悪くないよ。なんで?」
「やたらと見てくるので、もしかしてと思ったんだけど。ほら、目が悪い人ってよく見てくる人多いから」
「ああ、なるほど」
 暗にあなたは見過ぎと指摘したつもりだったが、藍沢は欠点だとは思っていないらしく、凝視はやめなかった。
「私の顔、そんなに好きなんですか」
 かまをかけてみると、藍沢は首を傾げて一瞬考えこんだ。
「いや、まあ嫌いではないけど。体はたぶん……」
 続く言葉を飲み込んだと思ったら、店員がやってきて注文した品を並べた。今度は女性だったので、私より藍沢を見ている。藍沢はそれを知ってか知らずか、女性に愛想笑いを返したので、店員の声のトーンが上がった。
 それを観察していると、藍沢は私の視線に気が付いて、店員との話を終わらせた。明らかにただの客と店員にしては必要のない話題を出していた気がするが、私に気を遣って早々に切り上げたのだろうか。そんな必要はないのに。
 店員が立ち去り、二人になると、藍沢はワインを飲みながら窓の外を見た。私もつられて外を見やると、雨上がりの宵闇迫る街並みが一望できた。他のことに気を取られて忘れていたが、ここに本来来るはずだったのは私ではない。こんな美しい景色を藍沢は昨日見た美女と楽しむはずだったのだろうか。
 あの石井という女ではなく。
 部外者である私が立ち入ったことを聞くべきではないが、気にしないようにしてもどうしても気になってしまう。藍沢にはなにかとはぐらかされてしまうことは目に見えていたが、一度正面から切り込んでいこう。
 覚悟を決めて藍沢の方を見ると、いつから見ていたのか、藍沢も突き刺すような視線を向けてきていた。そのくせ、やはり口元だけで大して楽しそうでもないのに笑っている。
 再び藍沢の瞳の奥に沈む深淵を垣間見て、私はようやくそれが何に似ていたのかを思い出した。そうだ、あれは。
「時宮さんは、恋愛は何だと思う?」
 意を決して口を開きかけた途端、出鼻を挫かれた。それも、私が最も答えにくい質問だ。
「恋愛?突然どうしてそんなことを?」
「時宮さんが聞きたがっていることは分かっているけど、まだ答えられないから逆に質問してみた。なんとなくだけど、時宮さんは俺と同類な気がする」
「同類」
「そう。なんか同じにおいがする」
 そっちはどう?と訊くように、小首を傾げながら観察するような視線を向けられる。
「そうね。私も似たようなことを思った。あなたの目は私に似ているってたった今気が付いたところ」
 だから驚いているのよ、という気持ちを素直に出しながら、私も藍沢の目を覗き込んだ。一般的な日本人よりも、やや色素の薄い瞳が僅かに見開かれる。すると、そこで初めて藍沢の分厚い何かが剥がれた気がして、私はどこかで安堵した。
 奇妙な感覚だが、認めてしまうと藍沢は私の鏡のようで、私が素直になればなるほど彼も素直になり、私はそこに光を見出だせるような気がしてくる。
 藍沢もそれを感じたのか分からないが、私と同じように多くの言葉は不要だと思ったに違いない。だけど、私は敢えて先ほどの質問に対して答えてみせた。
「私にとって恋愛とは何か。愚問だわ。最悪の一言に尽きる。強いて言うなら、人生を滅茶苦茶にしてしまうほどこの世で最も憎らしいもの」
 藍沢は同意する代わりに、今までになく最高の笑顔を見せた。
 

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