10、水底の檻


 窓から橙色の陽光が斜めに差し込み、ひどくゆっくりとその日の終わりを告げていく。

 俺は真上に伸し掛かっている男に揺さぶられるたびに、タバコが混じった汗の匂いがするのを嗅ぐ。タバコの臭いは嫌いだったし、今でも不快なことには変わりはない。それなのに、この男が漂わせる香りだけは特別だった。

 互いに視線を重ねながら、ほとんど同時に吐息に紛れるように想いを伝え合う。他にどんな行為をしても、俺はこの瞬間が一番好きだ。

 きっと男も同じであることを信じている。でも、もう終わりが近いことも同時に感じていた。

「かみべさん」

 行為が終った後、すっかり夜の帳が降りた部屋で、俺は窓際でタバコを吸っている彼の背中に声を掛けた。

「んー?」

間延びした声で返事が返ってきて、俺は思わず状況を忘れてくすりと笑う。暗がりで全貌は分からないが、彼が惚けたような表情で振り返る姿を思い浮かべた。

 かみべさんと俺はもともと、単なる上司と部下の関係だった。それがこんな関係にまで発展したのは、俺とかみべさんの経歴がよく似ているからというのが大きい。

 俺もかみべさんも、こうして普通のサラリーマンになる前は、Youtuberを少しだけやっていた。それぞれ個人で配信をやっていたが、どちらも一年ぐらい続けてみてなかなか視聴者も増えなかったために、その道を諦めてこうなったということだ。

 もし、俺とかみべさんがもっと早く出会っていたらどうなっていたかと、今でも時々考える。もしかしたら二人でペアを組み、一緒に活動して、もっとビッグな存在になれていたかもしれないと。でもそれも、あくまでも可能性の話で、現実逃避に等しい。

頭を切り替えるべく、俺は立ち上がってかみべさんの背中に近付いた。そして、顔を見られないように、その背中に頬をつけ、後ろから腹部に腕を回す。

「どうしたー?」

 背中を通してかみべさんの嬉しそうな声がする。

 それを聞いて、同じように嬉しくなった自分はもういない。今はただ、胸が痛いだけだ。

かみべさんと俺の間には避けては通れない問題がある。それから目を逸らし続けてきたけれど、俺はもう逃げることはできない。

「かみべさん、俺たち付き合ってたんだよね?」

「ん?なあに、どしたの」

「答えて」

 俺が少し強く言うと、かみべさんが一瞬黙り込む。その沈黙が怖い。

 けれど、腹部に回していた俺の腕を撫でたかみべさんは、安心させるように優しい声で答えた。

「付き合ってるよ。た、じゃなくて、る、ね。当たり前じゃん」

 細かな違いに気付くかみべさんは、もしかしたらもうこの後の展開を予測しているのかもしれない。

 言いたくない。言わなければいけない。自分の中の葛藤を抑えつけ、俺は震えそうになる声を努めて冷静に聞こえるようにし、その言葉を伝えた。

「じゃあさ、もう今日で最後にしよう。今までありがとう、かみべさん」

 腕を離した途端、ばっと振り返ったかみべさんが、待って、とか、どうして、と言ってきたが、俺は彼に対してどう答えたかうまく思い出せない。ただ、泣くのを堪えるのに必死で、それを悟られまいとするのに精一杯で。

俺は驚くほどの早さで衣服を整えてしまうと、そのままかみべさんの部屋から飛び出した。

かみべさんは俺を駐車場まで追いかけてきたが、近くの植木に隠れていると、諦めて帰っていく気配がした。

 植木から出て空を見上げると、朧月夜が薄ぼんやりと浮かんでいる。でもそれは、本当に朧月夜だったのか、涙で曇ったせいでそう見えたか分からない。

 誰にも聞かれたくなかった俺は、その場にしゃがみ込んで声を押し殺しながら静かに泣いた。

 

 

  こぽこぽと耳の奥で音がする。覚えているわけではないが、どこか母親の胎内を連想させる音だ。

 うっすらと目を開くと、淡いエメラルドグリーンの水の中にいた。水は透き通るように美しく、時折光に反射して煌めき、しばらくその光景に見入っていた。

「――、――」

 頭上から誰かの呼び声がした気がして、視線を水面の方へ向けてみる。ゆらゆらとゆらめく水の膜の向こう側に、見知った姿を見つけた。

「っ……!」

 名前を呼ぼうとすると、口の中に海水のような味の水が雪崩れ込んできて、息苦しくなる。もがきながら、その相手に助けを求めようと手を伸ばし。

「……ねぇあんた。大丈夫ですかぁ?」

 頭上から降ってきた声にはっと顔を上げると、水の気配は一気に消え去り、代わりに薄暗い照明とジャズの音色が飛び込んできた。

そこはどこかのバーのカウンター席だった。俺は空になったグラスを前に、アッシュグレーの髪色をした男と並んで座っている。

「あの。ここは……。あなたは一体」

 隣席だから距離が近いのは仕方のないことだ。分かっていても、初対面の人間に対しては警戒心が。

 そう思って距離を取ろうとすると、その男から漂う香りに一瞬固まった。慣れ親しんだかみべさんのタバコの匂いと同じだったからだ。

「俺?俺はふーと。てかさっきも名乗ったんですけど。やっぱお酒のせい?」

「ふー……と……?」

 今一つどの字を当てるのか分からずにいると、ふーとは心を読んだように首を振った。どうやら聞かれたくないことらしいが、それでさらに警戒心が膨らむ。

「怪しいって顔をしてますね。でも俺といけちゃんは初対面じゃないでしょ?」

「え……」

 その呼び名はYoutuberをしていたころの通称で、それを知っているかみべさんだけが常にそう呼んでいた。

 それをどうしてこのふーとは知っているのか。答えは二種類ある。本当に知り合いか、Youtuberだった時の追っかけか。

「いろいろ聞きたそうな顔をしているけど、ここにいる経緯とかは思い出せます?」

 からかい気味に聞かれた時、ふいに蘇る記憶があった。Youtuber同士のオフ会を開催した時、飲みの席でこの男と隣になり、王様ゲームでキスを。

「……」

「あれ。何か違うこと思い出しました?顔が赤くなるようなことはなかったはずなんだけどなあ」

「しゃがみ込んでいた俺を気にかけて、じゃあ愚痴を聞くから飲みに行こうと無理やり引っ張られた」

「そうそう。なあんだ、思い出したんですね」

 ふーとがくしゃっと笑うのを見た時、地響きのような雷鳴が轟いて大雨が降り出す音がした。

 辺りの客が騒ぎ出し、スコールか?この時期に?と言っているのが聞こえる。

 店員が店内のテレビをつけ、天気予報にチャンネルを合わせると、気象予報士たちは、突如発生した積乱雲の発生のメカニズムを調べようと躍起になっていた。

 一緒になって騒ぐ気にもなれずに、グラスに残っていた酒を煽ると、ほとんど水の味がした。

「ねえ、ホテル行きません?」

 一瞬、自分の口から出た台詞か、相手が言った台詞か分からなかった。

 異国の人の言葉のように理解に時間がかかった後、俺は顔を上げてふーとに言う。

「いいよ。雨が止むまでそばにいて」

 雨宿りを進める店員に断り、一つの傘を借りて二人で大雨の中、近くのホテルへ走る。二人とも傘の意味などないほど濡れたが、全く気にしなかった。

 ホテルに着いて、ふーととろくに言葉を交わすことなく互いの服を脱がし合ってバスルームへ向かう。

 シャワーを流しながら裸でキスをし合っていると、水の音に導かれて記憶の渦に飲まれた。

 

 


 

  入社試験当日は、朝から雨が降っていた。時折大降りになったり小降りになったりを繰り返しながらも一向に泣き止まない雨の音を聞いているうち、自然と心が鎮まっていく。

 雨の音と人工的なシャワーの音、昔飼っていた金魚の水槽の音が頭の中で入り乱れる。

「あれ、君ってもしかしていけちゃん?」

 試験会場に向かう途中、突然男に声をかけられた。黒髪のせいかぱっと見て冴えない男に思えたが、笑顔は春の陽射しを連想させる。

「俺、あなたのこと知らないんですけど」

 心に芽生えたものを無視して警戒心をむき出しにすると、男はにこにこしたまま自己紹介を始めた。

「かみべって知らない?一時期Youtuberしてた時があってさ。それでいけちゃんのこと知ったんだけど……」

 初対面の人間に会うと、決まって氷の中にいる自分を思い浮かべる。それが今回に限っては、最初から水の中か、あるいは木漏れ日の射した森にいるところを想像した。

 何を意味するのかはすぐに身を持って体験し、何回も声をかけられる度に自然とそうなっていった。




 

     シャワーのコルクをふーとが捻り、人工的な雨が止む瞬間。かみべさんと髪の長い女の姿がくっきりと水滴の一つに映り、落下して床で弾けた。

 俺が床にしゃがんでその後を追いかけようとしていると、腕を掴まれて強引に引き上げられる。

 シャワーはもう出ていない。体からはどんどん熱が逃げていく。

 それなのに、ふーとにゆったりと触れられるたび、熱が逃げる前よりももっと発火したように熱を帯びる。相手がかみべさんではないと分かっていても、彼の触れ方は一つ一つがかみべさんそのものとしか思えなかった。

まるで水の底に潜っているようにくぐもった音がする。底から水面を見上げている感覚を味わいながら、俺はかみべさんの幻を見せる男と一夜を過ごしていた。




 

  気が付けば、俺は再び淡いエメラルドグリーンの水の中にいた。どこまでも果てしなく続いているように見えたが、すっと手の平を前方に伸ばすと、何かつるりとしたものにこつんと当たる。

 ガラスみたいな感触だ。

 そう思った途端に、俺は自分が巨大な水槽の中にいることを知る。そして、水槽の外側に二つの人影が見えた。

「……で、今さら何しに来たんだ?」

 男の髪色が、水の中から見るせいか、淡く発光して薄茶に見える。いや、もっと薄い金にさえ見える。そのせいか、一瞬それが誰だか分からなかった。

「何しにって、あなたと話し合いをしに来たのよ。誤解を解きたくて」

「誤解って、何が。俺はしっかりこの耳で聞いた。ミチルの方から、もっと大事な人ができたから別れようって言ってたよな」

「それは、違うの。嘘よ。だってあなた、私を……くれないから。それに、あの人は誰なの?あなたの何?」

「……は、俺の……だよ。ミチルが理解できなくても、俺はこういう……しかできない」

 水槽にひびが生じ初め、次第に割れ目が大きくなり、ぱりんと音を立てて壊れた。

 コップが床に当たって砕け散るのを目にして、我に返る。

「あーあ、なんしよーと?大丈夫?」

 床に散らばったガラス片をぼんやりと見ていると、隣に来たふーとがすっと俺の手を取る。その目が指先を見つめて細められた。

 ぽたりと紅の滴が零れ落ち、指先を切ってしまったことに気が付くが、痛みはない。手を振り払って自分でなんとかしようと考える反面、何かをしようという気力もなかった。

 ふーとはそんな俺の気持ちを知ってか知らずか、指先に舌を伸ばしてちろりと舐める。ぞくりと悪寒に似た感覚が込み上げ、思わず身震いしかけた。

「こうすると、俺はいけちゃんの一部になるのかなとか考えちゃったり」

「は?」

「いや。何言ってるんだろうな、俺。やばいやつみたいだわ」

 ふーとは照れたように笑いながら、ぱっと俺の手を離し、ガラス片をそのままにしたまま、どこからともなく絆創膏を取り出す。

 絆創膏の柄が何故だかハート柄で、それもまたかみべさんを連想してしまった。そのせいか、俺はするりと口にするはずじゃなかった台詞を放っていた。

「ふーと」

「んー?」

 ガラス片はホテルの人間に片付けてもらうことにしたのだろう。ベッドに戻って自由に寛ぎ始めるふーとを見ながら、俺の口は勝手に動く。

「また会いたい」

 ぱっと花が咲くような笑顔を見せるふーとを見て、俺は心の一部をどこかに置き忘れた感覚になりながら、そっと笑みを返した。

 

 

  どうやって家に帰り着いたかも分からない。

 俺は自室のベッドの上に横たわり、天井を見つめながら昔のことを思い出していた。

 この仕事に就く前にYoutuberとして活動していた時、オフ会でふーとと出会ったのは思い出した。一方で、かみべさんとは当時出会った記憶がないと思っていたが、本当にそうだったのかとふと思う。

 そう思ったのには理由があって、俺は初対面の人間に対しては警戒する方で、会ったばかりでは顔をしっかりと見ることがないからだ。そんな中でもふーとのことを思い出せたのは、あの王様ゲームがあったからとしか言えない。

 もし仮に、かみべさんとも当時出会っていて、俺が気付いていないだけだったとしたら。俺とかみべさん、ふーとの三人が同じ場所にいたとしたら。

 どうしてかその可能性を考えると、相反する感情に苛さいなまれた。一つは、とても惜しいことをしたなという残念がるような気持ちで、もう一方は開いてはいけない箱を開けてしまったような気持ち。こういうのを、パンドラの箱を開けた、とでも言うのだろうか。

 自分の発想に苦笑しながら、電源を落としていたスマートフォンを取り出す。ずいぶんと長い時間が過ぎた気がしていたが、かみべさんに別れを切り出してからまだ一日しか経っていない。

 もしかしたらかみべさんから何か着信があったかもな、と少しばかり期待をしながら開いた俺は、スマートフォンを取り落しかけた。

 着信履歴が何十件もかみべさんで埋め尽くされ、メールも数え切れないほど来ていたからだ。

「何これ。こわっ」

 思わずそう漏らしてしまいながら、とりあえず一番新しいメールだけ開いてみることにする。

「いけちゃん、今までどこに行ってたの」

 声に出して読み上げた時、途中から二重に重なって聞こえた。

 背中に人の気配を感じた時にはもう、するりと腕を回されて囚われている。ひっとか声を上げる余裕もなく、俺は目を見開いたまま動きを止めた。

「いけちゃん、鍵開いてたよ。合い鍵もまだ持ってるんだけどね」

「……」

「いけちゃん、俺は別れるとか認めないから」

「……」

「いけちゃん、ねえ。しよ?」

 何度も何かの呪でもかけるように俺の名前を呼んだかみべさんは、返事をしていないのにも構わずに、いきなり服を脱がし始めた。

 俺は何かしら抵抗したような気もするし、していないような気もする。昨日の自分だったら迷いなく振り切っただろうが、今は水の中に潜った時のようにうまく体が動かない。

 頭の中を支配するのは、ふーとのこと。それから、女とかみべさんとのやり取りだ。全ての光景が旋回し、万華鏡の中を覗いているように次々と形を変える。

 現実が遠い、と思った時にはもう、俺はかみべさんの腕に抱かれて身動き一つ取れなくなっていた。

 

 

 もう慣れ親しんだ、ごぽごぽという音が耳をくすぐる。故郷にでも帰ってきたような心境で目を開いていくと、そこはエメラルドグリーンではなく、深い濃紺の水の底だった。

 どこか遠くから途切れがちに声が聞こえてくる。

 初めはよく聞き取れなかったその声も、徐々に耳元で囁かれているほどの声量でくっきりと聞こえ始めた。

「ミチルとはもう縁を切ったと言っていたから、つまらないと思っていたんだよね。でも、まさか俺とも出会っていたこの子をものにしていたなんてね」

 さらり、と前髪を撫でる感触がする。

「今回は示し合わせたわけじゃないのに、何で分かった?」

 つ、と体を撫でる手はかみべさんのもの。それがひどく遠くに感じる。

「なんでって、やっぱそれは俺だから?」

「何それ。そこは、俺のことを好きだからと言わないのか」

 くすくすと楽しそうに笑い合う声がする。耳障りなリップ音がしたと思えば、二人分の手が俺の体にかかる気配が。

 俺は感覚を遮断し、水底に意識を戻した。そこは誰もいない綺麗な空間だ。

 ほっと息を吐きかけると、じゃらじゃらと鎖のような物が体に巻き付き、錆びついた檻が自分の周囲を囲っていることに気が付く。

 檻の外で二人の笑い声が絶え間なく響いて、俺は耳を塞ぐ気力もないまま、ただその空間に囚われることしかできなかった。



END



next……11、未来へ